堀川今出川異聞(51)
いわき 雅哉
第5章 東国の系譜
◇ 逢瀬の深まり(7)
柾樹がそっと薄眼を開けて見ると、楓の膝の上に先ほどの封筒が裏がえしになった状態で置かれてあり、その上に楓の愛用の粋な深緑色のボールペンが乗っかっていた。楓が封筒の中から取り出したペーパーをカウンターの上で開いている時の僅かな隙間越しに柾樹が確認できたのは、住所欄に書かれた「京都市上京区」までの表示と、差出人欄に書かれた「逸朗」という名前部分だけで、それ以外は楓の愛用のボールペンにさえぎられてて読みとることができなかったが、それでもこの手紙の差出人が京都市上京区在住の男であることは間違いなかった。
「ねえ先輩。先輩はさっきからどうしてじっとうつむいておられるんですか、きちんとお顔を上げて楓の話を聞いて下さいよ。これから大事なお話をするんですから」 ― 楓は不自然な姿勢で薄眼を開けている柾樹に、いささか困惑した表情でそう言った。
「すまなかった、楓。いや、楓に手紙を送ってきた人の名前が見えたんで一体どういう人なんだろうか、と思ってね。どうも京都市上京区にお住まいの男性の方みたいだね」
「あ、この差出人の方ですか。京都の上京区役所の方ですけれど」
「区役所の人?」
「はい、どうしても調べたいことがあったので、上京区役所に電話して、分かりやすい京都観光案内地図を送ってもらったんですよ」
「なに、そしたらこの手紙を送ってきた人とは特に親しいとか好意をもっているとか言う関係やないんやね」
「楓が区役所に電話した時にたまたま応対に出られた方で、どんな方かも存じませんが、とても感じのいい方で、こちらの要望に沿った分かりやすくて見やすい地図をお送りしますね、とおっしゃって下さり、すぐに郵送して下さったんです」
「そうか、そうか、それは良かった。なにせ京都の人はみな親切やよって痒いところに手が届く対応をしてくれはるさかいになあ」― 柾樹は手紙の中身が全く事務的なやり取りの末に郵送されてきたものだったことを知って晴れ晴れとした気持ちになり、上機嫌で京都人を称賛した。
と、楓がすかさず切り返す。
「そうなんですか、先輩。以前は、京都の人はわざと答をわからんように言うんで辛気臭いんやとおっしゃっていましたよね」
「いや、それも人によりけりや。そんなことより楓、楓が知りたいという場所が記載された地図が送られてきたという今の話が、このまえ逢うた時にぜひ聴いてほしい話があると楓が言うてた話なんか?」
「は、はい・・・」
「よっしゃ、ほんなら気合いを入れて聴かんといかんな、楓」
「そうですよ、先輩。今からの楓の話には先輩もきっと『そら、凄い話やないか』と喜んで下さるに違いありません」
「そうか、そんなに自信があるんなら、聴こうやないか」
「ほんなら言おうやないか」と返答しながら腕まくりの仕草をする楓の可愛さに、柾樹の楓への思慕の念はいやがうえにも盛り上がる。
楓が口を開く。
「楓は、以前に先輩と一緒に首途八幡宮に行ったことがありました。そしてその場所が、平安の昔、鞍馬から脱出してきた牛若丸が道中の無事を祈願して金売吉次と共に奥州に旅立ったところである、という説明が書かれた鳥居横の案内板を二人で並んで読んだことを先輩は覚えておられますか?」
「もちろん覚えてるよ」
「で、その時に、先輩が『源家の統領の九男として生まれた牛若丸はその出自からしても本来用心深いはずなのに、鞍馬山からの脱出直後の厳しい警戒網が敷かれた洛中のこの首途八幡宮にわざわざ道中の無事の祈願をするためにやってきた理由がどこにも書かれていない。なぜこの場所に牛若丸が旅行安全の祈願をするためにやってきたのか、のいきさつが書かれていなければ、この神社の由緒は所詮作り話になってしまうじゃないか』とかなり憤慨しておられたんですが、それも覚えておられますか?」
「メチャメチャはっきりと覚えているよ。京都市が鳥居横に立てた来歴を説く掲示板の記述が余りにもおざなりな内容だったので、こういうことをしてはいけない、と本当に立腹したもんな」
「はい、そうでしたね。で、それ以来、楓は、何とか牛若丸と首途八幡宮とを結びつける有力な証拠なり必然性を感じさせる材料はないのか、と必死に探してきたんです。当然色々な書物にも目を通しましたが、そういう視点で書かれたものはどこにもなく、最後は自分の足で探すしかない、と決心したんです」
「楓はほんまに凄いな。僕は所詮言うだけや。が、楓は違う。徹底的に答を導き出そうとして頑張る。やっぱり学芸員魂の持主なんやなあ」
「先輩、それは違います。答を見つけて先輩に報告し、先輩から褒めてもらいたい、先輩に喜んでもらいたい、という一心でやったことなんです」
柾樹は一瞬息を呑んだ。楓はこの僕に褒めてもらいたいために、この僕を喜ばせるために、忙しい中、色々と手を尽くしてくれてたんか? こんな何の取り柄もないオッサンのために、こんなに聡明で美しい楓が寝ても覚めてもそんなどうでもいいことに真剣に取り組んできてくれていたのか、と。これが喫茶店内でなければきっと楓の手を握っていただろう。他のお客がいなければきっと楓を抱きすくめていただろう。が、いつもの癖で「そうか楓。そうまでしてくれてご苦労さんやったな。ほんで結果はどうやった?」とさらりと平静を装った。
「はい、結果から申しますと、首途八幡宮と牛若丸を何とか関係づけねばと一生懸命になり過ぎて、もっと素朴でもっと真実味が宿る根本的な疑問を発してこなかった自分の浅はかさに気がついたのです」
「もっと素朴でもっと真実味が宿る根本的な疑問を発してこなかった自分の浅はかさに気が付いた、てか、楓。一体どういうことや、それは?」
「私たちがある二つのものごとの間にある関係性を探し求める時には、往々にしてその二つの共通項を探すのに躍起になりがちですよね。でも、二つのものごとの関係性を追い求める時には、むしろ視野を思い切って広げて、一見無関係に見える素朴で人間の情念に響くような世界に踏み込むことで、思いも寄らぬ答が浮かび上がってくるのではないか、と考えてみたんです」
「ほほう、素朴で情念に直接訴えてくるような領域に踏み込んでさえいけば、そこから自然に首途八幡宮に繋がってくるヒントや背景が見えてくると言うわけか」
「そういうことです。それで楓は広域の観光地図を子細に見ることで、素朴かつ人間の情念に裏付けられた何か特異なものが浮かび上がってくるのではないか、とイメージし、上京区役所から送ってもらったこの京都の広域観光地図を舐めるようにしてチェックしてみたんです」
「そしたらどうなったんや」
「先輩、凄いものがこの地図上に乗っかっているのを発見したんですよ」
「凄い物やて?一体、楓は何を見つけたというんや」
「先輩、ここです。ホラ、ここをじっくりとご覧になって下さい」
楓の綺麗な指の先に示された場所に目を近づけた柾樹は、思わず「エっ」と声を上げた。
( 次号に続く )