堀川今出川異聞(49)
いわき 雅哉
第5章 東国の系譜
◇逢瀬の深まり(5)
およそ日ごろの楓らしくもない意味不明な笑いと刺々しい言葉を残して、柾樹の前から楓が姿を消してから、早や10日は経っただろうか。その間、柾樹は何度かメールを送り、携帯に電話をしてみたが何の反応もない状態に焦りを覚えだしていた。
たしかに京都駅前の瀟洒なレストランに入って美味しいランチを共にしたあと、楓が喜び勇んで「とっておきのネタ」を聞いてほしいと声を弾ませた時の雰囲気と、それを制して先に自分の想いを聞いてほしいと柾樹が口火を切った後に見せた楓の様子とは、不気味なほどの隔たりがあった。とりわけ最後に柾樹をなじるような激しい捨て台詞を残して姿を消した時の楓の雰囲気には常人ならざる異様さが感じられ、柾樹はふと、楓もまた萌と同じようにこの世のものではないのかもしれない、との思いを胸に抱き始めていた。
そんなある日、柾樹がいつもの喫茶店で昼食を済ませてマンションに戻り、郵便受けを開けると1通の封書が届いていた。宛名欄には流麗な筆文字で「淡見柾樹 様」と書かれてあり、裏返してみた差出人欄には品のいい筆致で「貴美野 楓」としたためてある。
急いで部屋に戻ったものの柾樹は封を切るのをためらった。萌の時と同じように別れを告げる内容が書かれていたらどうしよう。今の柾樹にとって、楓の存在は何ものにも代えがたい大きな位置を占めている、その楓が別離のメッセージを認めてきているのだとすれば、今の柾樹にはそれを冷静に受け止められる心の余裕など全くない。柾樹はその覚悟を定めてからでないと、とても封を切れそうになかった。
が、開けないわけにはいかない。柾樹は意を決して封を開いた。
「前略 まずは過日の京都駅前のレストランでのご無礼をお許し下さいませ。」―― 手紙の書き出しは意外なほどに単刀直入だった。もう少し楓らしい時候の挨拶があってもよかろうに、と柾樹は思ったが、忙しい中を縫うようにこの手紙を認めてくれたせいであって「そうか、あの子も気にしていたんだ」と柾樹は思うことにして続きを読んだ。
「さて、早速ですが、あの日の私がとった姿勢・態度には柾樹さまもさぞかし驚き呆れられたに違いありません。」―― おや、楓が自分のことを「私」と言ったのは初めてだ。加えて、柾樹のことも「柾樹先輩」じゃなくて「柾樹さま」、それも「様」ではなくて「さま」と書かれてある。柾樹はそこにいつもとは違う改まった新鮮さと楓の心根の優しさを感じとって、楓への思慕の念を募らせる。
「なにしろ柾樹さまのお話につっけんどんな相槌を重ねた挙句、突然大声で笑い出し、あろうことか柾樹さまを阿呆呼ばわりした上でプイと姿を消したのですから、私の気が触れたのではないか、と柾樹さまが思われたとしても不思議ではございませんでした。いえ、柾樹さまの目には、この私が実はこの世のものではないのではないかとさえお感じになっておられたのではないか、と推察しております。」―― 正にそのとおりだ。むしろこの世のものではないからこそ、かくも正確にこちらの心理を読みとることができるのではあるまいか・・・。
「そのように思われるような行動をあの日私がとりました背景には、実は、柾樹さまにお目にかかる度にその真摯で誠実でものごとに真正面から向き合っていかれる柾樹さまの生き方やものごとへの取組み姿勢に私自身が強く惹かれ、柾樹さまへの好意を募らせていったという事実があったからだ、ということを今日は告白しなければなりません。」―― え、なんだって、楓は僕のことをそんな風に思っていてくれていたのか。柾樹はこの部分を何度も何度も読み返した。
「そして、そうだからこそ、あの日、私は柾樹さまにああした態度をとったということもきちんと柾樹さまにお伝えしておかなければ、この先、もう二度とお目にかかることはできなくなるという思いをこのお手紙でお知らせしておこうと考えたのです。」―― ちょっと待て、楓。何でそんな恐ろしいことを言うんや。やっぱり楓も萌と同じこの世ならざる存在なのか・・・。
「と申しますのは、あの日、柾樹さまが私にお話された中身について、あの時もそして今も、私は決して承服できないでいるからでございます。」―― どういうこと?、楓。僕が楓に話したことについて楓は納得できないって言うの?
「柾樹さまは、あの日、学者が書かれた書物をお読みになって初めてお知りになられた内容に衝撃を受けられ、これまでご自分が何の知識もないままに歴史を感じとり、想像力を働かせ、中身を膨らませてきたことを大アホの仕業だった、としょげかえられました。」―― そのとおりや、ほんまに恥ずかしいことやったさかいなあ。
「が、柾樹さま。学者が昔の文献・資料に依拠して歴史を語ることだけが正しい歴史の見方だとお思いなのでしょうか。その文献・資料に書かれていることが本当に正しい記述だと一体誰が保証できるというのでしょうか。むしろ書かれているからこそそこに嘘があることも視野に入れた上で歴史を読み込んで行くことこそが大切なのであって、そのために求められる最良の方法とは、その場所、その拠点に今もなお息づいているその当時の匂いや当事者の情念を嗅ぎ取る力を養うことにあるのではないのか、と私は思っているのです。」―― そう言われればそうやけど、そんな匂いや情念を今この時代になって嗅ぎ取ることなど出来っこないやろ。
「ただ、そうは言ってもなあ、と柾樹さまはお感じになっておられるでしょうね。なぜなら、そういう方法論で歴史にアプローチし、史実を理解出来る人など、現実には殆どおられませんものね。」―― 分かってるやないか、楓も。
「そうだからこそ文献の重要性が叫ばれるのですが、そこに埋没してしまっては却って間違った認識に陥りかねないということを弁えなければならないと私は考えているのです。実際柾樹さまが衝撃を受けられた高橋 崇先生ご自身が、記述されたものを読みとられる上でどれほど慎重にその価値を判断しておられるかは、あの本を拝読しても随所に感じられるところです。そうだからこそ私が申し上げるようなアプローチを併用していく意味や価値があるのだとの確信を一層強く抱いたのです。」―― そういうように思わなきゃいけなかったのかね、楓よ・・・。
「ここまで申し上げますと、柾樹さまはきっと『仮にそういう仮説が有効だとしても、実際にそんなことができる人間など一体どこにいるというんだ』といぶかられることと存じますが、実は、柾樹さまこそがその願ってもない才能を持っておられる数少ない実在者のお一人なのです。」―― 誰やてえ? 何、僕がそうやてか。
「私が柾樹さまにお目にかかる度に好意を募らせたのは、実は、柾樹さまが実際にそういう方法とスタイルで何百年も前のその地で起きた事実の痕跡をその人の情念から捉えようとして必死になっておられたからなんです。勿論、最低限の知識は大事にしなければなりませんし、その事件や人を取り巻いてきた諸環境・諸関係という多層的で複雑な総体を正確に理解しておく重要性は言うまでもありませんが、それ以上に大切にしたいのは、その場所にいまなお沈潜している何百年も前の人々の情念や匂いを嗅ぎ取って、その歴史的事実を招来させた真実の背景に直接アプローチしようとする姿勢だと思うのです。」―― そう言うてくれるのはうれしいけどなあ・・・。
「柾樹さまは、そんな気高い資質を天賦のものとして持っておられるのにもかかわらず、先日の京都では、あろうことかその才能に疑問を抱き、そのかけがえのない己の才能をかなぐり捨て、歴史に対して取組んできた今までのご自分の姿勢が間違っていた、と意気消沈され、何よりも尊い柾樹さまに備わっていた稀有のノウハウが『書物から得られる知識』よりも劣後しているのだと誤認された事実を、この私はどうしても許せなかったのです。」 ―― 怖いやないか、楓。
「それであの日、私はその余りのご認識不足を失礼ながら笑ってしまったのですが、なおもしつこくご自身の歴史へのアプローチ論を自己卑下され続けられたので、ついに私は自らの怒りを押さえることができなくなって、あんな形で席を立ったのです。」―― そんなことやったんか、楓。それにしても楓は気が強すぎんのんと違うか?
「私は、歴史を振り返る時に、伝承や言い伝え、民間信仰やおとぎ話といった、今日的に言えば『非科学的』と称されるものの中にも真実や真理が隠されているという視点を忘れてはならないと常々考えてまいりました。もっと申し上げれば、第一級の歴史資料と言われるような日記や記録であってもそこには脚色もあれば忖度もあり、それを鵜呑みにすれば思わぬ落とし穴に落ちることにもなりかねないだけに、それを補強する要素としての伝承や言い伝えをその当時の人々の真実の声として聞きとる力を備えていくことが大切だと申し上げたかったのです。」―― そう言われればそうやなとは思うけど・・・。
「そういう努力を惜しまないことによってこそ、仮に史料が改ざんされていたとしても、その部分への警戒心を作動させる安全弁が機能することともなりましょう。つまりは記述されたものは常に後世の権力者によって書き換えられたり誇張されたりする危険性を有していると警戒し、声なき声に耳を傾けることができる能力がいかに大切かを、柾樹さまにはご理解いただきたかったのです。」―― そう言われると先輩面してきた自分が恥ずかしい・・・・。
「あの日の私のご無礼はそう言う思いから出たものであることをどうかご理解下さり、二度とそうした極端な文書主義の弊害に陥られないようにご注意下さるとお約束していただければ、この楓はどれほどに嬉しいことでしょう。なぜなら引続きお目にかかって共に古都の歴史探索を楽しむことができるからです。」―― 分かった、ゴメン、すぐに改めます。せやから逢いたい・・・。
「長々としたお手紙になってしまった上に、若輩の私がこんな失礼なお説教臭いことを大先輩に申し上げてしまって、本当にごめんなさい。でも最後にもう一言。私は萌さまの後任としての役割をあてがわれて柾樹さまの前に現れましたが、萌さまとは違って現世に生きている生身の人間です。だから喜怒哀楽も素直に出しますし嫉妬もします。そんな私でも引続き付き合ってやろうとお思いであれば、今度は先日宿題となったままのこの楓からのとっておきのお話をぜひお聞きいただきたいと思いますが、いかがでしょうか。」―― 楓、今すぐにでも楓に会いたいんや。いつも後輩やと思うて付き合うてきたけど、こんなにしっかりと自分の考えを主張する子とは思わなんだ。そこがまたたまらん魅力や。今すぐにでも楓の話を聞きたいんや、明日はどうや。
柾樹は矢も楯もたまらず、楓宛の携帯電話のショートメールに電報みたいな短い文章を打ち込んだ。
「明日にでも急ぎ逢いたし。乞うご都合返信」
柾樹は送信ボタンを押しながら、これほどに手厳しい批判をされながらも余計に楓への想いが抑えようもなくなってきている自分にほとほと呆れかえっていた。
( 次号に続く )