堀川今出川異聞(46)

いわき 雅哉

 

もっと奥に潜む事実を知りたいと柾樹に思わせた首途八幡宮の石碑 撮影 三和正明

第5章 東国の系譜

◇逢瀬の深まり(2)

 風情のある喫茶店での楓への突然の告白の日から数日が経ったある日、柾樹はどうしても気になることがあって、義経奥州への旅立ちの地と書かれていた首途八幡宮にもう一度出かけて行った。

 あの日、あの神社に建てられていた由緒にざっと目を通して、鞍馬山から脱出してきた牛若丸が金売吉次に伴われてあの神社で奥州への旅立ちの安全祈願をしたという事実があったらしいことは理解できたが、その記述に余りにも緊迫感が感じられなかったことが気になって仕方がなかったからだ。

 実際、神社入口の駒札の簡単な記述は勿論のこと、この神社での出来事を詳細に後世に残すために地元有志によって建てられた石碑の案内板にも、鞍馬に隔離されていた牛若丸が承安4年(1174)3月3日の夜明けに命がけの脱出を図り、当時「内野八幡宮」と呼ばれていたこの神社で旅の安全を祈願して奥州に旅立っていったという事実だけがさらりと書かれているだけで、この世紀の大脱走が敢行された背景や周到な実行計画の策定などについて全く言及されていないことが、たとえ字数の制約上やむを得ないことだったにせよ、柾樹には無性に不満だったのだ。

 そもそも鞍馬山に囚われの身となっていた牛若丸が、どういう経緯から脱出を計画し、成功できたのか。いやしくも天下の源氏の総大将源義朝を父に持つ牛若丸が、いかに幼なかった(それでも脱出を敢行したのは16歳だったと石碑には書かれている)とはいえ、こんなリスキーな計画にやすやすと乗っただろうか。加えて、脱出が成功したからと言ってなぜ当時「内野八幡宮」と呼ばれていたこの神社で安全祈願をする気になったのか。たしかにこの神社の奥の方に吉次の屋敷があったからといえば説明がつくような気もするが、本当にそんな単純な理由だけでこの神社の旧名「内野八幡宮」が後に「首途八幡宮」と改称されるほどの歴史的大祈願を牛若丸が行ったと簡単に認めていいのだろうか。等々、柾樹の胸中には次々と疑問が浮かび上がってきた。特に、この当時の人々の神への思いは、今の時代とは異なり非常に運命的な感覚も含めてある種の必然性なしには行動には移さないはずだ、と柾樹は想像していただけに、余りにもものごとの捉え方が大雑把でご都合主義的に過ぎないか、と感じられたのである。

 柾樹は、そんな物足りなさと残念さを強く意識しながら、石碑の前で眼を閉じて当時の状況に思いを馳せた。

 時は平氏全盛の時代。鞍馬に預けられた源義朝の忘れ形見牛若丸の動静に対する当初の厳しい監視の目も、平氏一色の世となったことでいつの間にか油断が芽生えだしてきていたのだろうか。それとも鞍馬寺で遮那王と呼ばれ、齢16歳を迎えるまでに成長した牛若丸の身辺に特段警戒すべき様子も確認できなかったことで、平治の乱での平家戦勝直後の鉄壁の監視体制も次第に弛緩しつつあったのだろうか。

 はたまた、この牛若の鞍馬脱出に遡る5年前の1169年に、宋との交易の拡大を企図した清盛は福原に別荘を造営、牛若脱出劇の前年(1173年)には大和田泊に待望の人工島「経が島」を完成させて次の大きな構図を描いていたことなども、洛北の警固の綻びの遠因になっていたのだろうか。

 先ほどの石碑によれば、牛若の鞍馬脱出は桃の節句の明け方だったとあるが、当時は今と違って雛祭りは男女を通じて子供の健康を願う節句として祝われていたようで、その祭事を控えて山門のリスク管理も疎かになっていたのだろうか。仮にそうしたお祭り気分の雰囲気が全山を覆っていたとしても、こと牛若丸を巡っては易々と脱出などできるはずがない監視の真っ只中にあったはずなのに、一体どういう方法でこの地までの脱出劇を敢行できたのだろうか。

 柾樹は、この牛若脱出劇で、監視する側に何らかの手抜かりがあった一方で、脱出を敢行させた側の準備がどれほど周到で慎重なものであったかにも思いを馳せ、まるで大スペクタクル映画に胸躍らせるかのように想像をたくましくしていった。

 おそらく脱出敢行のXデイに向けて最初にとられたアクションは、源氏の郎党達による牛若丸への秘かなアプローチだったに違いない。遮那王牛若丸は、鞍馬山で自分の出自も知らされぬまま寺から命じられる勉学や修練に勤しんでいた。そんなある日、その牛若に源義朝ゆかりの郎党が近づき、その耳元でこう囁く。

「遮那王様、いや、牛若丸様。若様は、今は亡き我らが源氏の頭領源義朝様の忘れ形見におわしますぞ」

 驚く牛若に、その者は、父君義朝公が牛若誕生早々に勃発した平治の乱において清盛に敗れ、落ち延びる途中で謀殺されたこと、それゆえに牛若も殺される運命にあったが、母 常磐御前の助命嘆願で、今この鞍馬の地に隔離されていること、よって然るべき時期にこの鞍馬から脱出し、源氏再興の戦の旗頭の一人として立ち上がらねばならない立場にあること、を説き、やがて来る鞍馬脱出の日に備えておくよう、告げたに違いない。

 この日を境に、牛若は、仏に仕え学問に精を出してきた鞍馬の遮那王から、平家打倒の鬼、源氏の郎党の希望の星へと生まれ変わる。が、聡明な牛若は、その心の変化を気振りも見せず、只々Xデイに備えて心身の鍛錬に励んだ。この牛若に秘かに接触を続け、その成長の様子を仔細に観察してきた源氏の郎党達は、牛若を、単に義朝の子息という血統ゆえにではなく、その知力・胆力・体力の強靭さゆえに、源氏再興の夢を託し得る御曹司と確信し、この大脱出劇の実行に命を賭けたのだ——柾樹はそう確信した。

 こんなドラマチックな光景が柾樹の胸中に広がれば広がるほど、鳥居横の駒札に書かれている「源義経(牛若丸)が奥州平泉に赴く際に、吉次の助けを得て、ここで道中の安全を祈願して出発した」という表現や、首途八幡宮奉賛会の石碑横の案内板にある「三月三日夜明け、鞍馬山から、ここ首途八幡宮に参詣し旅の安全と武勇の上達を願い、奥州の商人金売橘次に伴われ奥州平泉の藤原秀衡のもとへと首途(旅立ち)した」という記述は余りにも牧歌的で、この脱出劇の緊迫感・臨場感・現実感を全く伝えていないことに改めて無念さを募らせた。この一大事件をそんなに淡々と表現してしまっては、金売吉次が命を賭けた逃避行のリスクの重みや、この神社が歴史的に果たした意義や位置づけが矮小化され、この史実が持つせっかくのドラマチックな価値自体が後退してしまうではないか。

 柾樹は、鞍馬脱出というXデイ実行にいたるまでの周到な準備と、その日以降の平家・山法師の懸命の捜索・追捕、それをかいくぐって実行された目的地奥州への大逃避行という一大サスペンスを、今更ながらにこの小さな社の隅々で感じ取りたいという思いに囚われた。

 ところで、柾樹が愛読している吉川英次著「新・平家物語」では、この緊迫の大脱走ドキュメントが敢行された日時を、この石碑に書かれている前年、すなわち承安3年の6月22日としている。同書によれば、その日は、観衆の雑踏でごった返す鞍馬祭りの三日目。その日の恒例祭事である竹伐会に衆人の目が釘付けになっている最中に、源氏の郎党達に守られながら牛若が鞍馬から姿を消した、と描かれている。

 当然追っ手の厳しい山狩りが行われ、洛中・洛外に追捕の目が光る中、鞍馬を脱出した牛若は、金売吉次の手引きで洛中某所に身を隠し、明けて翌年の桃の節句の翌々日早暁に、吉次と共に奥州に旅立った、とあるが、実際、同書に描かれる牛若周辺の人物・情景の活写は誠に感動的だ。今若・乙若・牛若の三人の子供の命乞いに成功した母常磐の子供達に寄せる無事・安寧の悲痛な願いを今や痛いほどに知りつつも、平家打倒に向けて鞍馬山を脱走する遮那王牛若丸と、それをサポートする源氏の郎党や吉次が織り成す波乱万丈の光景は、正に血沸き肉踊る場面となっている。

 が、悲しいことに、「新・平家物語」には、牛若が、奥州出発に当たって、ここ内野八幡宮の社頭で道中の無事を祈願したという記述は一切見当たらない。

 たしかに、この神社の記述のように、牛若が鞍馬からストレートにここ内野八幡宮の社頭に現れ奥州への道中安全を祈った、とする展開は、この命がけの脱出劇敢行直後の状況下ではあり得ないことであったろう。そこはやはり「新・平家物語」にあるとおり、前年の6月下旬に鞍馬を脱出し、洛中に潜伏すること9ケ月を経て、ようやく警戒網も緩み出した「翌年の桃の節句の翌々日」に奥州に出発したのだと理解してはじめて、その出発直前での内野八幡宮への参拝は十分実現可能だったと見られるのではないだろうか。

 むしろ問題は、あの牛若がなぜここ内野八幡宮の社頭で手を合わせようと思ったか、だ。前述したように、神仏に寄せる当時の人々の思いや感覚からすれば、この地に吉次の屋敷があったからという理由だけで牛若が社頭で手を合わせ、爾来ここを首途八幡宮と呼ぶようになったという流れや説明ではどこかこじつけがましい匂いがするように思えてならない。警戒網が緩みだしたとはいえ、まだまだ身辺に警戒を要する状況下、さまざまな危険性を侵しながらも牛若がここ内野八幡宮に手を合わせたのだとすれば、そうしなければならないと牛若が感じた「牛若の情念に強く響くような要因・要素」が存在していたからでないと納得の行く説明にはならない。そういう何かがあったからこそ、牛若は、ここ内野八幡宮に参拝し、愛しい都を離れることを決意したのではないか。そうでなければ、神前に奥州行きの安全を祈願して打った牛若の柏手は余りにも空疎なものとなり、後世首途八幡宮と呼ばれるような神域とはならなかったのではないか。柾樹は、そう強く感じだしていた。

 が、その「牛若の情念に強く響くような要因・要素」とは一体何なのか。柾樹は、この重い疑問を抱えながら、つい先日楓と二人で歩いた石畳の参道を今日は一人でゆっくりと引き返そうとしていた。

 と、突然、柾樹に携帯メールの着信を知らせるサイン音が鳴り、表題画面に「楓です。至急お目にかかりたく」との文言が浮かび出た。

( 次号に続く )