堀川今出川異聞(44)
いわき 雅哉
第5章 東国の系譜
◇奥州の息吹(5)
柾樹は、うめくような低い声を発した。
「萌、萌じゃないか・・・」
静かに開けられた障子の向こうにひざまづき、大切そうに客人に差し出す抹茶茶碗を捧げ持ちながら、今まさに客間の柾樹の方に向かって進み出ようとしている妖しの影を見て発した柾樹のその声に、楓が「先輩、萌様ではありませんよ」とたしなめるように柾樹に声をかける。それでも柾樹はうつろな目つきでその影の動きを追っている。楓は、横合いから柾樹の顔を睨みつけ、なおも呆けたような顔で萌とおぼしき姿を追っている柾樹の袖をグイッと引っぱった。
驚いたような表情で楓を見る柾樹に、楓は素知らぬ顔をしながら、柾樹の袖を掴んで引っ張る力だけは決して緩めない。そのうち萌と思しき女性は静かに柾樹の前に正対し、品のよい仕草でお茶碗を前に置いた。柾樹はその女性に軽く一礼しながらその顔を見てようやく別人だったことに気づき、やや恥ずかしげな表情で楓の方を見る。楓はようやく柾樹の袖から手を離したが、相変わらずつんとして素知らぬ顔だ。明らかに怒っている。柾樹は、すぐ目の前に金売吉次が座っている場所で楓に声をかけるわけにもいかず、ばつ悪そうな顔で、お茶碗の中のお抹茶に視線を注いだ。
各人の前にお抹茶が供されたところで、吉次は言った。
「さ、さ、鍛心庵様、楓様、京の宇治のお抹茶にございます。ぜひぜひご賞味下されませ」
「かたじけのうございます。しからば遠慮なく頂戴いたします」柾樹はそう言って傍らの楓にも目配りするが、いつもは愛想のよい楓が全く反応してくれない。
そんな楓のことを気にしながら、ちょうど飲みごろの湯加減で点てられたお抹茶を喫していると、先ほどの女性が出て行った縁側の障子が再びそっと開いて、例の平左が遠慮がちに吉次に声をかけた。
「おかしら、ちょっと」
「む? 何かな」吉次はそう言いながら柾樹に向かって「鍛心庵様、ちょっと失礼いたします」と軽く頭を下げると、平左のいる縁側の方へと出て行った。ようやく二人きりになれたが、楓は美しい姿勢で正面を向いたまま、柾樹には一瞥もしない。「どうしたんだ、楓」と柾樹が声をかけようとした時に、吉次が部屋に戻ってきて柾樹にこう言った。
「鍛心庵様。この吉次、せっかくこれからあれやこれやの楽しいお話を鍛心庵様からお伺いしようとワクワクしておりましたのに思わぬ野暮用が入り、急ぎ人に会いに行かねばならなくなりました。この商売、こういう無粋なところが一番いただけません。鍛心庵様にはこのあと誰ぞに色々とお楽しみいただける趣向などをご用意させまするので、お時間の許す限りごゆっくりとなさって下されませ。ささ、平左、よしなに、な」
柾樹は、内心「しまった、うまく逃げられたか」と思いつつも、「いやいや手前どももそろそろお暇せねばと思うておりましたゆえ、これにて失礼させていただきます」と即答する。
「いやいやこの吉次ともあろう者がかようなご無礼ぶりで、本当に申し訳ござりませぬ。この借りは必ずや後日きちんとお返しさせていただきますので、これに懲りられず、ぜひまたお目にかかりとうございます。今度お会いできる時は、今日お見せできなかったものやお話できなかったことをいろいろとご披露したいと思っておりますので、ぜひとも楽しみになさって下さりませ」と、まるで柾樹が聞きたがっている中身を吉次はとっくに知っているかのような口ぶりで巧みにお愛想を言った。
庭先を先導しながら表門のところまで送ってくれた吉次は、話題をはぐらかされていささか落ち込んでいる柾樹と、ようやく機嫌を直して柾樹のあとから着いてくる楓に向かって、こう言った。
「鍛心庵様、楓様。吉次は商いを生業としておりますので、儲けることが使命と心得てはおりますが、常日頃、商いにはそれ以上に大切なことがあると考えております。」
「儲けること以上に大切なことがある・・・? 吉次殿、それは一体何ですか。」
「それは、物を商うという行為を通じてこの国の中央と地方を結びつけ、いささかなりとも文化の交流に資し、人様の恩義にも応え、次の時代の新しい息吹きにも敏感に対応して行くことで、事業を営ませていただいている世の中に対してご恩返しをしていくという使命みたいなものと申せばよいでしょうか。」
「ご恩返しの使命・・・・・・・・」
「そのためには時に身の危険をも顧みぬ命がけの気構えが必要でございますし、時には商いの枠を超えたものにも手を染めねばなりません。吉次が、そんな営みを続けてこられたのも奥州藤原のお殿様のご庇護があってのことであり、更にもっと遡れば、奥州十二年戦争(前九年後三年の役)を通じて奥州藤原氏開祖の清衡公をご支援いただけた八幡太郎義家様のご助力の賜物と申さねばなりますまい。そのご命令、ご意向、ご遺志とあれば、吉次はいつでも商人の域を超えて立ち働く覚悟は備えておるつもりでございます。」
「・・・・・・・・・・」
「これ以上は、一介の商人の申し上げることではございません。また、お目にかかれることがあれば、珍しいものや鍛心庵様がまだお口に入れられたことのないようなものをご用意してお待ち申し上げておりますので、楓様共々近いうちにまたこちらにお越し下さりませ」――吉次はそういうと深々と頭を下げた。穏やかだが、その目には強い輝きと力が籠もっていて、何となく「お前の聞きたいことはこれで分かるだろう。分からないようでは再会する意味もないぞ」と言われているような圧力を感じ、柾樹は一言も言葉を発することができなかった。
と、突然、甲高い子供の歓声があがり、隣接している桜井公園から数人の子供達が、柾樹と楓の横をすり抜けて駈けて行った。柾樹は子供たちに「危ないよ」と言おうとして、ハッと我に返り、つい今しがたまで時空を超えた旅を味わっていた自分に気がついた。
二人は、まだ吉次と話を続けているような感覚で桜井公園の中に入って行った。すると今しがた時空を越えて吉次の庭を歩いてきた時に見たのとそっくりの池や水の流れが公園の真ん中に作られている。それは、「雍州府志」という江戸時代の書物の漢文の一説に書かれてあった「橘次の井戸」を再現したかのようであり、柾樹と楓は思わず顔を見合わせた。
実際、この場所のすぐ北にある本隆寺には名水「千代野井」があり、さらにその近くの雨宝院にも「染殿井」があることからも、この辺りの水がいいというのは紛れもない。そんな良水の出る場所に邸宅を構えた吉次の着眼力に気づいた柾樹の耳にその公園の水音が心地よく響き、先ほど別れた吉次が所用を済ませて「お待たせしました、鍛心庵殿」と笑いながら再び目の前に立ち現われるかのような錯覚に陥った。
が、目の前の智恵光院通には、今出川通に出ようとして信号待ちをしている車の長い列が見えるだけで、吉次との対話はすでに遠い過去のものとなっていた。が、そんな吉次が別れ際に口にした言葉の中から、牛若脱出劇の背景には、奥州藤原氏が平家の勢いにかげりの予兆が出てきているのを敏感に感じ取り、常々京と奥州とを行き来している吉次に牛若確保の命令を下したに違いないとの思いが膨れ上がってくるのだった。
だが、それにしても遠い奥州の地にあった藤原氏が、牛若を鞍馬から脱出させる必然性はどこにあったのか、という謎は解明されないまま吉次と別れる羽目となった。加えて、今日突然平左に声をかけられた時の楓の凛々し過ぎた立ち居振る舞いや、萌と誤解した女性の登場時に見せた楓の平素は見られない言動など、一番身近で安心感のあった楓の存在までもが柾樹の胸中で大きく揺れ動きだしてきていた。
「ま、まさか」― 問い詰めたくもない疑問が急に柾樹の胸中を去来し、柾樹は意を決して立ち止り、楓に言った。
「ちょっと話がしたいんだが、時間は大丈夫か?」
( 次号に続く )