堀川今出川異聞(43)

いわき 雅哉

 

柾樹が楓と見降ろしていた首途八幡宮隣の桜井公園の入口 撮影 三和正明

第5章 東国の系譜

◇奥州の息吹(4)

 背後からの突然の声に最初に反応したのは、柾樹ではなく、楓だった。楓は、即座に声の主の方を振り返り、少し遅れて振り返った柾樹をまるで声の主から守るかのような姿勢で立ちはだかると、その声の主に向かって誰何した。

「そなた、何もの」―― その楓の声の凛々しい響きに柾樹自身が驚いた。と、声の主もさっと一歩下がって辞を低くし、丁重に返答した。

「こ、これは楓様。失礼いたしました。みども、吉次の手の者で、平左と申す者。主人の吉次より、鍛心庵様がこちらにお見えになったらお屋敷のほうにお通しするように申しつけられてまいりました」

「おお、平左殿とやら、それはご大儀な。いきなり背後から声を掛けられました故、少々身構えましたわ」―― 楓はそれまでの緊迫した雰囲気を一変させ、屈託なく笑った。その後ろで柾樹は、何がどうなっているのか分からない様子で二人の会話を聞いていたが、懐かしい「鍛心庵」という名で呼ばれたことでようやく事態を飲みこんだ。久しぶりに平安末期の異界に降り立ったのだ。状況を理解した柾樹の様子に、楓も安心したように立ち位置を変え、柾樹と平左を正対させた。

「平左殿と名乗られましたかな。私が鍛心庵ですが、私がここに来たらお屋敷に通すよう吉次殿から言われたのですか?」

「はっ。ここから下に降りていただきますと主人吉次の住まいがございます。ご案内いたしますので、楓様もどうぞご一緒にお越しくださいませ」―― そう言うなり、その男は二人を先導してスタスタと歩き始めた。

 柾樹は、以前の山名宗全宅の時や千本釈迦堂のお内儀のおかめとの邂逅の時と同様に、今回も自分の来訪が見透されていたことを不思議に思うと共に、今、目の前にいる吉次の使いと称する平左なる者が、楓のことまで知っていたことに驚きを禁じ得なかった。楓は自分の高校の可愛い後輩で、今は学芸員としての仕事に励んでいたのではなかったのか・・・。

 そんな柾樹の詮索もものかわ、平左は、柾樹が先ほど楓と一緒に上ってきた石段とは別の石段を飛ぶように下に降り、今しがた柾樹が見下ろしていた桜井公園の方へと二人と先導して行く。その歩く速さと敏捷さに柾樹がついていくには少し息が切れるほどだったが、平左と楓の呼吸に一切の乱れはない。柾樹は、そっと楓の顔を覗きこむが、楓は何ごともなかったかのように以前と同じ魅力的な笑顔を柾樹に返してくる。柾樹はますます混乱する一方で、以前にもまして楓への好意を増幅させながら、ただただ必死に平左のあとを追った。

 と、やがて柾樹の目の前に立派な構えの邸宅が姿を現した。平左は「ささ、どうぞ」と二人に大きな門をくぐるように手招きすると、そこから屋敷の中に向かって大きな声を発した。
「ご主人様。鍛心庵様と楓様をお連れ申しました」

「おう、平左か、ご苦労でした」という声が奥から聞こえ、やがて玄関口に姿を現わしたのは、がっしりとした体つきに精悍な面構え、それでいてにこやかで相手の心を瞬時に掴み取ってしまうような独特のオーラを漂わせた男だった。

「これは、これは、鍛心庵様、それに楓様。ようこそお越し下さいました。この屋の亭主 吉次にございます。むさくるしいところではございますが、どうぞこちらにお上がりくださいませ」

 さすがに金を商ってその名ありといわれた男だ。如才なさと抜け目のなさが同居した相当のやり手だということが一目でわかる。最初はやや警戒していた柾樹だったが、この男の発する独特の雰囲気にあっという間に飲み込まれ、屈託なく言葉を返した。

「吉次殿、お初にお目にかかります。つい最近、近くの堀川今出川に転居してまいりました鍛心庵と号する隠居同然の者でございます。平左さんに案内されるままにここまでついてまいりました」

 そう自己紹介しながら柾樹は、このところ全くそうしたセリフを忘れていたのに、こんな状況になればよくまあ自然と口をついて出てくるものだ、と我ながら感心する。

「いやいや鍛心庵様、そんな堅苦しいご挨拶はそこまでにしていただき、さ、さ、お上がりくださいませ。今日は過ごしやすい小春日和。ごゆるりと楽しいお話などお聞かせ下さりませ」

 流石は当代きっての商人だ。どちらがお客でどちらが亭主かわからないような人なつっこい話しぶりで、有無を言わさず柾樹と楓を奥の間に案内した。

 この時代に富をほしいままにしていた人物だけあって、床の間には見事な漢詩のお軸がかけられ、床畳には見事な唐物の香炉が置かれている。縁側の雪見障子からは、庭の楓の鮮やかな紅葉が一幅の絵のように眼に飛び込んでくる。

 柾樹は上座に座らされ、突然のことで何から話していいものやら見当もつかず、しばらくはもじもじしていたが、頼りにしたい楓はと言えば素知らぬ表情でお庭を眺め、主人の吉次は柾樹のまん前に座ってニコニコしている。

 柾樹もようやく落ち着きを取り戻し、折角飛び込んできたこのチャンスに自分が聞いておかねばならないテーマを吉次にぶつけてみようと考えた。そのテーマとは他でもない、この吉次という謎の男がとった奥州藤原氏への牛若丸案内の本当の意図や狙い、またそれに先立って用心深いはずの牛若の胸襟を開かせて見ず知らずの吉次を信用させるに至った奥の手というか極意、さらには牛若が内野八幡宮の神前に手を合わせた本当の背景などについて問い質そうと考えたのだ。

 柾樹はおもむろに口を開いた。
「あのお、吉次殿は」

「吉次殿だなんておやめ下され。吉次で結構。所詮は家や身分という後ろ盾のない商いの世界に身を置く一介の商人、明日はどうなるものか知れたものではございません。吉次殿などといわれますと、誰のことか、と、戸惑ってしまいまする」

「いや、奥州から金を仕入れて都で売っては大成功しておられる吉次殿のお名前を知らないものはいないと聞いておりますものですから」

「とんでもございません。商いなどというものは、良い時は良いのですが、一旦風向きがおかしくなると、あっという間に大転落でございます」

「しかし、奥州のような遠方の産地から貴重な金を都まで運んでくるという危険極まりないお商売で、よくまあ立派に成功をおさめておられるものですね」

「いや、鍛心庵様。この商売、一人では決して出来ないものでございます。扱うものが高価ということもありますが、それ以上に、産地の動向、輸送の安全、需要の見通しなどを組織的に掌握し、想定される危険度に最大限の注意を払いながら、機敏に身を処していかねばなりませんので、信頼のできる大勢の仲間が必要でございます」

 吉次のこの説明を聞きながら、柾樹は、まるで今の時代のビジネスの要諦を講義してもらっているかのような錯覚を覚えるほどに、吉次の商売感覚は近代的で合理的だった。

「仲間の皆さん、といいますと、やはり全国に散らばっておられるのでしょうか」

「仰せの通りで、いわば吉次党のような仲間があちこちにおります」

「そうしたお仲間との連絡というのも大変でしょうね」―― 柾樹は、そのあとあやうく「インターネットもないし・・」と言いかけて、ぐっと息を呑んだ。楓がそれを察知したかのようにクスリと笑う。

 吉次は、相変わらずニコニコしながら、
「迅速・正確なやりとりが必要なだけに、曖昧模糊とした中身しか伝えられない連中とでは仕事になりません」

「そうすると仲間内でしか通用しないような、いわば暗号のような言葉もお使いになるんでしょうね」

「はい、仲間以外には通じない短かくて正確な言葉を駆使して状況を掌握するということになります」

 柾樹の質問にテキパキと答える吉次だが、首途八幡宮の境内に立てられていた奉賛会の案内板に書かれていた江戸時代の古書には「橘次」と表記されていたように、そもそもそういう人物が実際にいたのかどうかは今なお謎に包まれている。が、この吉次の取り仕切っていたビジネスそのものは当時実際に存在していた商いであり、その機能を担う商売人の代名詞として、吉事に通じる吉次という名が語り継がれてきたのかもしれない。今、柾樹の目の前にいる吉次が、自らのビジネススタイルについて説明する歯切れの良い回答を聞きながら、柾樹は、そんな風に思いを巡らせていた。

 だが、柾樹が本当に吉次に訊きたかったことは、決してビジネスの中身の詳細ではなかった。この謎の男がとった奥州藤原氏への牛若丸案内の本当の意図や狙い、またそれに先立って用心深いはずの牛若の胸襟を開かせて見ず知らずの吉次を信用させるに至った奥の手というか極意、さらには牛若が内野八幡宮の神前に手を合わせた本当の背景などについて、柾樹はこの際何としても聞きださねばとの思いで、その頃合いを見計らっていたのだ。

 が、敏感な吉次は、そうした柾樹の意図をいち早く見抜いてか、巧みに話の矛先を変え、逆に柾樹に質問を仕掛けてくる。

「いや、そんなことより鍛心庵様。さきほど平左が『見知らぬお方が祠を覗きこみながら何か考え事をしておられます』と言ってきましたので、『そのお方こそ鍛心庵様じゃ。粗相なきようすぐさまこちらにご案内せよ』と命じたのですが、何かお心に引っかかるようなことでもございましたか」

 吉次は愛想のよい顔つきで穏やかに聞いてはくるのだが、そこから醸し出される空気には、敏腕の商売人特有のどこか謎めいた得体の知れない深慮遠謀が感じられ、時としてそれが一種の殺気のような圧迫感を伴ってくるので、柾樹は緊張しながら返答した。

「いや、ここは丁度平安京の鬼門にあたる北東に位置しておりますから、きっとここには御所をお守りする立派なお社が鎮座していたに違いないと思ったのですが、さきほどお参りした祠は失礼ながらあまりにも小さいものでしたので、一体どういうことなのだろう、と不思議に思っていたのです」

 すると吉次は、如才ない表情でうなずきながら、
「さすがは鍛心庵様。おっしゃるとおりここにはかつて壮大なお社が建っていた、と聞いております。内野八幡宮という名のその神社は、御所の大内裏の北東の鬼門にあたるこの場所を守護するために、宇佐に鎮座する八幡宮の総本宮からご神体を勧請して造営されたまことに格式の高いお社であり、実に立派なたたずまいであった、とのこと。が、天災で往時の面影が全くなくなってしまうという不幸な事態となったようです」

「そんなことがあったのですか」

「はい。それからは、この地は、長くぽっかりと穴が開いたような場所となっておりました。が、私は、そういう経緯を何も知らないまま、まるで何かに引き寄せられるようにこの場所に来て、都における拙宅は何としてもこの場所に構えたいという気持ちになりました」

「以前の状況をご存じないまま、何かに引き寄せられるように?・・・」

「はい。それでこの一角を手に入れ、住まいを建てたのですが、その時に、ここの小高い丘に霊威のようなものを感じ、以前ここに何があったのかを調べてみてはじめて、ここが内野八幡宮の跡地だということを知ったのでございます。その霊威を発していた小高い丘というのが、さきほど鍛心庵様が立っておられた場所なのでございます」

「ほう、そこに、何か霊威のようなものを感じた、と・・・」

「はい。さすがは大内裏をお守りしてこられた内野八幡宮様。そのお力に吉次もおすがりしたいと考え、ここに祠を造営させていただきました。が、所詮は一商人の力など知れたものにございます。往時の規模とは似ても似つかぬ小さいもので、今はこれでご勘弁を願うております」

「そういうことだったんですか」

「はい。爾来、毎朝ここに詣でて前日までの感謝とその日の無事をお祈りするのがこの吉次の日課となりました。八幡宮は戦の神様ですが、私どもの商いも戦のようなもので、本当に毎日が八幡様に守られているような気がいたしております」

「そうでしたか」と柾樹は答えながら、この吉次の話は、本当半分・嘘半分だな、吉次ほどの者が何らかの狙いや計算なしにここに屋敷を構えるなどとは到底考えられないものな、と感じとっていた。

 吉次のことを痛快に描いた読み物に、三好京三氏の「小説 金売り吉次 陸奥黄金街道」という著作があるが、それによれば、もともとこの地に奥州藤原氏の京都支店に相当する「平泉第」があり、そこに隣接する形で金売吉次も屋敷を構えたとされる。その吉次がやがてその「平泉第」を治めていた橘次郎末春のあとを襲ってこの地を我が物とし、その名も橘次と名乗った、と書かれている。 

 すでに功なり名を遂げた吉次には触れられたくない過去だろうから、柾樹は敢えてその点は追求しないことにして、むしろここは単刀直入に牛若を奥州に連れて行くことにした理由と、その実現のために吉次がとった具体的な戦術を直接確かめようと考え、今しがた吉次が八幡宮を信仰して毎朝お参りをしている、という話をした機を逃さず、牛若関連のテーマに切り込む入口にしようと口火を切った。

「ところで吉次さん。毎朝お参りをしておられると言うその八幡様と言えば、源氏の大将八幡太郎義家公のことが思い起こされますよね」

 その瞬間、それまで穏やかに笑みを湛えていた吉次の表情が引き締まった。が、すぐに元の表情に戻ると、まるで今の柾樹の話が聞こえなかったかのような顔をして、廊下に向かい声を上げた。

「これ、お茶はどうなっていますか」―― 吉次がそう言うや、まるで誰かが武者隠しに潜んで指示を待っていたかのように廊下側の障子がすっと開き、そこに一人の人物がひざまづいている。柾樹は、その妖しの影を見て、腰を抜かした。

( 次号に続く )