堀川今出川異聞(38)
いわき 雅哉
第五章 東国の系譜
◇ 千本釈迦堂の謎(9)
いきなり柾樹から「電子辞書をもってるか」と聞かれた楓は、怪訝な表情をしながらも、「はい、仕事柄いつも持ち歩いてはいますけど」と答えて、バッグから愛用の1台を取りだし、柾樹に手渡した。
柾樹は、カバーを開くとすぐに何やら打ち込んで、じっとその画面を見つめていたが、やがて、「これや、これしかこの謎を解く手立ては考えられんわ」とぽつりと言った。
楓は、柾樹が何を調べたのかを横から覗きこむような無作法な真似はすまいと、柾樹の傍らでじっと柾樹の表情だけを見つめていたが、その楓の方に向き直った柾樹は、やおら物静かに話しだした。
「楓。おかめさんが実は如意輪観音だったこと、だからご主人の苦境を救った時点で自らの役割と正体を明かされ菩薩界に戻られたこと、ただ、その際に、起きた難儀を観音の力で解決してもらったなどとは言わずに全てが棟梁の裁量・技倆によって達成できたということにしておくように優しくアドバイスいていただいたこと、というのが、楓と僕とのこれまでの合意内容やったよね」
「はい、そのとおりです」
「そうであればおかめさんが『自刃』するような余地も可能性もないはずなのに、なんでおかめさんは『自刃』したという伝聞が今日残っているのか、について、どう考えたらいいのか、という点を解明するのが残されたテーマだったよね」
「正にそのとおりです」
「なら、ちょっと話は長くなるけど、僕の想像を聞いてくれるか」
「勿論です」
「楓。僕はね、棟梁が観音菩薩の霊力によって問題を解決してもらった時に、全て自力で解決したと言いなさいとの観音菩薩からの暖かいアドバイスを授けてもらったにも関わらず、この寺院がいかに仏のご加護のおかげで無事に上棟式を迎えることができたかを、上棟式当日にきちんと参会者に伝えるべきだと考えていたに違いないと想像したんだ。特に、参会者の多くは、工事期間中ずっと世話になっていたおかみさんがこんな大事な日を前にして突然いなくなったことに理不尽な思いを抱いていたであろうから、その疑問にも答える責務が自分にはあると考えて、敢えて真実を告白しようと考えたのではないか、と想像してみたんだよ。
ただ、おかめさんが実は観音様そのものであったと言う部分はさすがに恐れ多いことなので、そこへの言及だけは避けたいと棟梁は考えた。そこで少々事実を脚色するなどして有難みだけは何とか伝えようと思いを巡らせた結果、聴衆が誤解してしまうような表現と言うか発言をしてしまい、不本意にもそちらのほうが伝聞として今日にまで残ってしまったんではないか、と想像を逞しくしてみたんだけど、楓はどう思う?」
「どう思うって言われても、ちょっと楓には難解すぎるお話です」
「分かったよ、楓。こうしよう。上棟式式典当日に、実際に棟梁が話したであろうスピーチを想像して今から僕が再現してみるから、ちょっと長くなるけど聞いてくれるか」
「先輩、何だか面白そうでワクワクしてきました」
「冷やかすなよ、楓。恥を忍んで一人芝居をやるんやから」
「いよー、柾樹先輩、待ってました!」
「こら、楓、怒るで、ほんま。さあ、ほな、始めるで。棟梁が楓の目の前でしゃべってると思て、聞くんやで」
そう言いながら柾樹は少し威儀を正して畏まり、いかにも上棟式当日の棟梁に成りきって、第一声を放った。
『本日ここにめでたく上棟の儀を行うまでに作業が順調に進められたのは、ほかでもない大工衆の面々が身を粉にして仕事に精を出してくれたお蔭やったが、実は、それだけやない大切な天の助けというか奇跡が起きたから今日という日を迎えることが出来たということを、今日は自分の口から皆なに報告したい、と思う』
『その奇跡と言うのは、この自分が自らの未熟さで工事の続行を諦めねばならないある事態を招き、この上は自ら命を断って責任を全うするほかないと覚悟を決めて妻のおかめにそのことを告白した時に起きたんや』
『実は、自分の妻であり皆にとっても優しく暖かい女将でもあったおかめが、この道の専門家でさえも思いつかんような最高・最良の解決策を教えてくれるという見事な提言をしてくれたおかげで、この自分は命を捨てずに済んだんや』
『自分のその失敗ちゅうのは、皆も知ってのとおり苦労して手に入れたあの大切な4本の中心柱の1本を、こともあろうに間違おうて短こう切ってしまうっちゅう不手際をしでかしたことやった。切り落としてしもうた構造材は使い物にならん。4本で組み上げようとしていた1本がそうなってしもたらまともな他の3本も使い物にはならん。この上は我が命を断ってお施主様にお詫びするほか道はないと覚悟を固め、おかめとももはやこれまでと正に自刃して果てようとしていたその時に、突然おかめが入ってきて、これ、棟梁、何をなさいます、一体何が起きましたんや、このおかめに正直に聞かせとくれやす、と、ことの真相を問いただしよった』
『所詮は言うてもせんないことやと思いはしたが、一緒にこのお寺の落慶法要の日まではと頑張ってきた手前、一言も言わんと永遠の別れをするのは忍びんと思うて、ことの真相を聞かせたら、おかめはしばらく黙って考えとった。が、やがて静かに口を開くと、マスグミを組んで乗っけたらどうですか、と言いよった。その思いもつかん解決策を聞いてこの自分がどれほどに驚ろいたかは、皆にも容易に想像できると思うが、その一言で、この自分は救われ、棟上げという今日のこの日を無事迎えることができたんや』
『おかめはその時に言いよった。こんなことは素人(しろと)やさかいに思いつくんであって、そんな素人の思いつきでこのお寺が無事に建立できたやなんて言われるようなことがあっては、お施主様に申し訳がたたんうえ、洛中随一の呼び名の髙い棟梁のお名前にも傷がつきます、せやから今日ここであったことは一切二人だけの話にして、うちは今からちょっと旅に出ます、とな』
『皆も、この間から急におかめの姿が見えんようになったので気にしてたみたいやが、実は、おかめが言うのには、無事に上棟式を迎えられたからと言うて安心してたらあきまへん、この先、落慶までの仕上げに粗相がないよう、平素から信心してる観音様に願をかけに往てきますよって、家の大工の子らとあんじょう工事の完成まで気張っておくれやす、と言い残して、観音霊場に向けて家を出ていきよったんや』
『そんなわけで今日のこの場におかめはおらんのやが、おかめの気転で無事今日を迎えられたということだけは、皆、決して忘れんといてくれんか』
「先輩。今のお話では、むしろ自刃しようとしたのは棟梁の方やった、という流れですね」
「そうや、楓。聴衆が最初に驚いたのは、この話の中で出てきた棟梁の自刃という局面での驚きやった。それを救うたのはおかめさんやったんやけど、そのおかめさんが願かけのために姿を消しはった。ただ、そこまでの流れやったら聴衆が誤解する懸念はなかったはずやけど、次に棟梁が話した言葉で、人々は自刃したのがおかめさんだったという誤解を抱いたんやないか、というのが僕の解釈やねんけどな」
「いったい棟梁はこのあと何を言わはったんですか」
「あくまで僕の想像やけど、こう言わはったんと違うやろか」
『平素から信心深いおかめが、無事に落慶出来るように、と観音様に願かけに行くと言って家を出たのはその日の夜遅くやった。おかめのおかげで自分の失敗が解決できる目処も立ち、ゆっくりと風呂に入ってる間に、おかめは居らんようになってしもた。おかめのお蔭でこの自分の命が救われたのに、まさかその命の恩人であるおかめが身代わりになったんやないか、と最初は仰天したが、部屋の文机の上に、おかめのあの流麗な字で、朝な夕なに観音様のことを心から思い続けますので、あなたさまが一途に仕事に専念されます限り、無事の落慶は間違いありますまい、との趣旨の書付が残されてあったので、おかめには観音様がついていて下さると信じ、皆と共に落慶の日まで全身全霊で職務に邁進しようと誓うたんや』
「ここまでならまだおかみさんの自刃は大丈夫ですよね、先輩」
「そうやねんけど、棟梁の次の締めの言葉がおかめさん自刃説のもととなったんと違うやろか、と思うねん」
「えっ、ここまで問題なくスピーチしてきて、もう『ご清聴有難うございました』で締めときはったら、誤解も何にもおこらへんかったやろうに、一体、棟梁は何を言いはったんですか」
『この観音様の霊力という何物にも代えがたいものがこの寺院の建立のために授けられたのは、他ならぬおかめの【ジジン】という尊い行為の結果やったと言う事実を決して忘れずに職務に邁進してほしい、と最後に皆にお願いして、棟梁としての上棟の思いとしたい』
「えっ、ということは結局最後はおかめさんは自刃されたってことですか」
「そう思うやろ、楓かて。誰しもそう思うてしまう言葉として【ジジン】というキーワードが棟梁のスピーチの最後の部分で使われた結果、今日に至る誤解が生まれたんと違うか、と僕は考えたんやけれど、どうやろう」
「いや、先輩、どうやろうではなく、棟梁がわざわざ【ジジン】というキーワードで何を言おうとされたんですか」
「そこやねん、楓。僕はこう考えてみたんや。この話には、今も昔もよく間違いの元となるホモニムつまり同音異議語による混乱があったんではないか、と」
「それって同じ発音で意味が違う言葉による誤解があった、ということですか、先輩」
「そのとおり。それでさっき楓に電子辞書を借りたってわけ」
「ちょ、ちょっと画面を見せて下さい、何を調べたんですか」と言いながら、楓は柾樹の手から自分の電子辞書をひったくるように取り戻して、画面を見た。
「ははあ、先輩、広辞苑で『ジジン』と打ったんですね。そしたら【寺人】、【自刃】、【自尽】、【時人】、【慈仁】と5つもの同音異議語が出てきますね」
「そう、僕らは【ジジン】と聞くと【自刃】としか連想しない。ましてや棟梁の話の中で、最初に棟梁自身が自刃しようとしたと語られていたために、この式典に参加した聴衆は誰しも【ジジン】と聞けば【自刃】と理解してしまう。そういう特殊な状況下で日本語の同音異議語による誤解が生じたのではないか、と考えて電子辞書で調べたら、5つの同音異議語の中にまさにドンピシャの同音異義的解釈ができる【ジジン】があったんや」
「どれどれ、あ、最後の【慈仁】ですよね。その意味は『なさけ深いこと』って書いてあります。さっきの棟梁の最後のスピーチの『他ならぬおかめの【ジジン】という尊い行為』と言った部分の【ジジン】とは、【慈仁】つまり『他ならぬおかめの【慈仁(なさけ深いこと)】という尊い行為】」のお蔭だったということを皆に伝えようとされたことだった、と考えられますね、ってわけですね」
柾樹は大きく頷きながら言った。「楓先生。本日のこの僕の推理は合点していただけましたでしょうか」
楓は、ちょっと目をクルクルっとさせながら、左手の掌を右手の拳骨で2,3度叩きながら「合点・合点」と言いつつ、こうコメントした。
「かなり理屈っぽくて分かりにくい解釈でしたが、ジジンというヨミだけでも多くの異なる意味の言葉があって、それゆえに誤解を生んだり洒落や掛け言葉の面白さの源泉になったりするという日本語の難しさと楽しさを応用してお考えになられた点と、まるでご自身が棟梁であるかのようなセリフ回しで楽しませていただくというご努力を評価して、まあ敢闘賞ってところでしょうか」と相好を崩した。
柾樹もさすがに照れ笑いしながら、「敢闘賞か。ま、嬉しいことは嬉しいけど、たしかにかなり無理な展開だったもんね」と頭を掻いた。
楓は、電子辞書をバッグにしまいながら、「でも、こんなことにも一生懸命になられる柾樹先輩のまじめさと茶目っけが、楓は本当に素敵だと思います」と笑った。
柾樹は、【素敵(ステキ)】ではなく【好き(スキ)】と言ってくれよ、と思ったので「ステキのテの発音は英語で言うサイレントにしてほしいですね」とちょっぴり楓を睨みつけてみた。すると楓は、すかさず掌にカタカナでテと書いて口に放り込み、ぐいっと一気に飲み込むふりをすると「テは消しました」と言わんばかりに可愛い口をぱくっと開けてみせた。
そろそろ暮れようとしている境内にはもはや人っ子一人見当たらず、二人の寄り添う影だけが境内の地面に細く長く伸びていた。
( 次号に続く )