堀川今出川異聞(31)
いわき 雅哉
第五章 東国の系譜
◇千本釈迦堂の謎(2)
喫茶店のママから差し出されたメニューに目をやりながら、その若くて美しい女性は「では、コーヒーを」と答えた。ママは、「ふ、ふつうのコーヒーでよろしいですか」と確認する。「ええ、ふつうのホットコーヒーで」と、女性は微笑みながら返事する。匂うような品の良さが店内に満ちてくる感じがして、ママと妹は、しばしの間、その女性の顔を呆けたように眺めていた。
その美しい女性は、コーヒーを待つ間、物珍しそうに、カウンターの奥の棚に飾られたさまざまなコーヒーカップを見つめたり、店の奥の方に目をやったり、椅子席のうしろの辛うじて大人一人が通れる程度の狭い通路を振り返ったりしている。キョロキョロしているはずなのに、そのすべてがまるで日本舞踊を演じているかのように様になっている。上目づかいにその様子を見ている姉妹の口は、いつの間にかポカンと開いたままになっていた。
そういえば以前、この女性よりは少し年上だったが、誰もが思わず振り返るような着物姿の美人がお店に入ってきたことがあった。その時は、馴染み客の西陣の旦那衆が、モーニングセットを食しながら賑やかに談笑していたのだが、その女性が喫茶店のドアを開け、「ホットコーヒーをいただけますでしょうか」と言いながら入口に一番近い席にそっと座り、奥に陣取っている旦那衆に品良く会釈を送った瞬間、平素は口さがないうるさ型の旦那衆が全員あんぐりと口を開け、一斉にその女性に向かってコックリとうなづいたまま、一言も発しなくなってしまったことを、姉妹は思い起こしていた。
その時は、黙りこくってしまった旦那衆に代わって、姉妹の方がその女性に積極的に話しかけ、その人が東京から一人で京都に遊びに来たこと、今からこの界隈の名所旧跡を見て回るつもりでいること、などを聞き出したが、なんでも平気で聞く妹でさえ「お宅はなんでそんなに別嬪さんで、着物も見事に着こなしたはるんですか。モデルさんか女優さんですか」とまでは聞けないままでいた。そのうちその女性は「美味しいコーヒーでした」とにっこり微笑み、着物姿にふさわしい身のこなしでやや高めのカウンターの椅子から通路に降り立ち、再び旦那衆に軽く会釈をして店から出て行った。
後日、柾樹はその話を姉妹から聞かされたが、二人は「よっぽど淡見さんを電話で呼び出そかと思たんや。せやかて西陣の旦那衆は誰一人しわぶき一つたてんと押し黙ったままやったし、淡見さんなら東京のことで何かお話もできる上に、なにせ毎日京都中を歩いたはるんやからその人を案内したげることもできると思たさかいね」と打ち明け、まだ萌と巡り合う前の柾樹を大いに残念がらせたものだった。
今日の喫茶店の姉妹は、正にその時の西陣の旦那衆と同じ状態に陥ってしまっていて、ポカンと口を開けたまま、目の前でコーヒーを飲んでいる若くて美しい女性を見つめている。
と、突然その女性が声を発した。
「あのお、つかぬことをお伺いしますが、こちらのお店に、淡見柾樹さんと言う方がよくお見えになると聞いてきたのですが、その方のこと、お分かりになりますでしょうか」
そう言われて、ママは慌てて返事をする。
「え、あのお、淡見さんて、あの淡見さんのことですか。東京の家に帰らんと京都にとどまってウロチョロしたはる」
「はい、そのように伺っております」
「さっちゃん、あの淡見さんて、マサキさんちゅう名前やったかいなあ」
「たしかそんな風な名前やったと思うけどなあ」
「お客さん、うちらの知ってる淡見さんて、もう定年で会社をやめはったようなお年の人ですけどねえ」
「はい、たしかにそのように伺っています」
「それやったらつい今しがたまで、ここでコーヒー飲んだはりましたがな」
「あら、もう少し早くこちらに着いていれば、お目にかかることができたんですね」
「そうです。正に入れ違いにお宅さんが入ってきはったという感じでしたもん」
「そうだったんですか。それは残念なことをいたしました。で、その淡見さんはどちらに行かれたんでしょうか」
「ここを出はったら、マンションのお部屋に帰りはったんか、どこかそこらへんをうろついたはんのか、は、うちら一切分かりませんなあ・・・」
「お電話で連絡を取っていただくことはできないんでしょうか」
「そら、携帯の番号は聞いてますよって、連絡しよ思たら、いつでも連絡はできますけど、ただ、今日初めてうちにお見えになったお客さんで、淡見さんとの関係もようわからんお方からいきなりそう言われても、うちらちょっとねえ・・・」
「これは失礼しました。ごもっともなことでございます。私、貴美野 楓(きみの かえで)と申しまして、今朝、大阪からこちらに参りました」
「大阪から? そらまたそんな遠いとこからこんな堀川今出川くんだりまで、わざわざ淡見さんに会いにきはりましたんかいな」
「そうなんです」
「そう言うたら、淡見さんも最後は大阪の会社に単身赴任してた言うたはったさかい、その関係でのお知り合いなんですか?」
「いいえ、淡見様のお顔も存じ上げなければ、言葉も交わしたことがございませんので、私自身もお目にかかるのはいささか不安なんですが・・・」
「ということは、淡見さんもお宅さんのことを全然知りはれしませんねんね」
「そういうことです」
「そ、そ、そんなお互いに知らん仲という関係のお二人やのに、うちら淡見さんに電話して、ちょっとお知り合い、いやお知り合いやないんや、あかの他人の人が会いたい言うたはりますよ、なんて、そら、なんぼなんでもよう言いませんわ」
「それもまたごもっともなことです。淡見様にご連絡を取っていただく時には、こう、おっしゃって下さいませんか、『淡見さんが親しくしておられた萌さんの使いの楓という者が、萌さんからの言伝てをお伝えするために、大阪から京都に来ています』と」
「え、今、なんと言わはりました?。萌さんのお使いやて言わはりましたか?」
「はい、萌の使いで参りました」
「楓さん、て言わはりましたかいな。淡見さんは、萌さんて言うただけで、何処に居たはったかて、飛んできはりますえ」
「だと嬉しいのですが」
「任しといて、楓さん。うちらすぐに淡見さんに電話しますよってに」
「よろしくお願いいたします。楓も助かります」
喫茶店のママは携帯電話をとりだし、柾樹に電話をかけた。
「もしもし淡見さん、あのね、今、うちのお店に、淡見さんに会いたいて言うたはる人が来てはってね。すぐこっちへ来てくれはらしまへんか」
「僕に会いたいと言う人? 誰ですか、その人は?」
「ああ、そうそう、名前はね、楓さん、て言うたはりますねん」
「カエデさん? カエデ何という名前ですか」
「いや、楓さんは下の名前やさかい」
「下の名前がカエデ? ひょっとして女性の方ですか」
「そうそう、綺麗な若い女性の方ですえ」
「綺麗か綺麗でないかどうでもいいんですよ、ママ。それにしてもカエデなんて名前、聞いたことがないなあ。苗字はなんとおっしゃってますか」
「苗字は、えーっと何て言いはりましたかいな」
「あ、貴美野です」
「キミノさんやてえ」
「キミノ? いや、そんな苗字の人、僕は知りません。知らない人には会えないって言ってるって、ママから断って下さい」
「えー、会えへんの、淡見さん。なんでえ?」
そのやり取りを聞いていたママの妹のサチコが、姉から携帯電話をもぎとるや、早口でまくし立てた。
「ちょっと、淡見さん。妹のサチコやけど、その楓さんちゅう人がどんな用事できはったのか、も聞かんと、会えへんいうてよろしいんやな」
「だって、全然知らない人なんだから」
「確かにその人も淡見さんとは初めてやて言うたはるけど、そもそも誰に頼まれて淡見さんに会いにきはったんか、分かったはるの?」
「知りませんよ、そんなこと。サっちゃん、僕も忙しいんです。そんなことだったら、もうこの電話切りますよ」
「そうですか、ほんならさっさと切りなはれ。まあまあどんなに萌さんが悲しみはることか。淡見さんが電話切りはらんかて、うちの方から切らせてもらいますえ」
「ちょっと待って、サっちゃん。今、なんて言いました。萌さんが悲しむですって。なんでその人に僕が会わなかったら萌さんが悲しむんですか」
「ごちゃごちゃうるさい人やなあ。それが知りたかったら、さっさとお店に来たらどうですえ。うちはもう電話切りますから」
彼女が電話を切ろうとした時に、柾樹の方から先に電話を切ったらしく、プープーという音が聞こえてきた。妹は、姉に携帯電話を返しながら、やや呆れ顔で言った。
「楓さんて言わはりましたかいな。本人、すぐにここへ飛んできますわ。ほんま世話の焼かせる人や。それに姉ちゃんも姉ちゃんや、さっさと萌さんの名前出したら、すぐに話がついたんや」
妹がそういい終わるや否や、喫茶店の扉が勢いよく開けられ、肩で息する柾樹がそこに立っていた。
( 次号に続く )