堀川今出川異聞(19)
いわき 雅哉
第四章 洛西慕情
◇ 等持院
「あの声は、まぎれもなく萌さんだ。が、一体、なんでこんなところで彼女の声が聞こえてくるんだ」
柾樹は、一瞬、今、自分がどこにいるのかさえ分からなくなり、あたりをきょろきょろと見回した。たしかにそれは聞き覚えのある萌の声に違いなかったが、柾樹は、すぐには自分の置かれている状況が理解できず、どぎまぎしながらその声の主の居場所を探そうと、四方八方に眼をやった。
その柾樹の動揺した様子が気になったのだろう、今度は「あら、鍛心庵さまったら、萌はこちらですよ」という声が柾樹の耳に飛び込んできた。それは、柾樹の立っている尊氏公の墓所の後方にある築山のほうから発せられている。急いで柾樹はその方向に目をやるが、声の主の姿は見いだせない。
やむなく柾樹は、声が聞こえた方へと歩き始めた。足元には小さな石の橋があり、そこを越えて歩を進めようとした時だ。いきなり築山のほうから「おー」、「むー」というように聞こえる低く小さな声と静かに打たれる小鼓・大鼓の音が聞こえてきたか、と思うと、なにやらお能の謡曲のような低い節が柾樹の耳に飛び込んできた。
「およそ女人に好意をば 抱かんとするおの子らは 逢瀬を重ねるその前に 逢瀬を重ねるその前に 己が想いを吐露すべし 己が想いを吐露すべし」
柾樹はぎくりとした。初めて逢った瞬間から「素敵な人だなあ」と思っていた萌に、正式に面と向かって口が聞けたのは、山名持豊公の邸内でその名を教えてもらった時が最初だったが、それ以来、逢いたい、逢いたい、という思いがどんどん募ってきた結果、とうとう幻聴が聞こえるようになってしまったか、と思ったからだ。
加えて、萌に対して好きだと言う率直な言葉を伝えないままに、萌の気持ちだけはきちんと確認したいと思うどこか潔さのないアプローチとなっていることを気にしていた柾樹の心の内が、その謡によって完全に見透かされているように思えたことも、柾樹には言いようのない怖さに感じられたからでもあった。
「これはいかん。もう引き返そう」と柾樹が踵を返そうとした瞬間、いつ、どこから現れたのか、目の前に萌が立っていた。その眼には大粒の涙が今にもこぼれ落ちそうにあふれている。
「萌さん」
「鍛心庵さま」
二人は思わず目と目を合わせて、お互いの名を呼びあった。
柾樹は、そっと萌の手をとり、涙でいっぱいになっているその目をじっと見つめながら、思いのたけを一気に伝えた。
「萌さん、はじめて僕が萌さんに逢った時からずっと言わねばならないと思っていたことがあります。萌さんが僕のことをどう思われていようが、僕は萌さんが好きです。それを口にせずに、ただただ逢いたいと思っていた僕は、どこかずるくて卑怯でした。
仮に、僕への萌さんの気持ちが萌さんへの僕の思いと真逆であったとしても、僕の萌さんへの気持ちは変わりません。今日こうしてお目にかかれた以上、そのことだけははっきり申し上げておきます。
だからと言って、僕は、萌さんに、僕に好意を持ってほしい、などとは絶対に言いません。逆に、もし萌さんがこの僕に好意を持っていただいているのなら、時々逢って下さるだけで、僕はどんなに嬉しいことか。
今日は、そのことだけを萌さんに伝えたかった。それを今、萌さんの目の前で言うことができて、僕は本望です」
言い終えると柾樹は萌の手を放した。萌は、手が離れる寸前に柾樹の人差し指の先をきゅっと握りしめた。その柾樹の人差し指の先に、萌の大粒の涙がぽとりと落ちた。
ふと気がつくと、二人は築山の上に建てられているお茶室「清漣亭」の前の石畳に立って、美しい眼下の「芙蓉池」とその向こうの方丈の建物を見下ろしていた。時代も年齢も場所も空間をも超越した男と女がほほ笑みを湛えながら、洛西の夕日に照らされている。
柾樹の耳に再びさきほどの謡曲の節が聞こえてきた。
「あなめでたやな、思いはついに遂げられにけり、思いはついに遂げられにけり」
( 次号に続く )