堀川今出川異聞(18)
いわき 雅哉
第三章 時空往還
◇ 山名氏残影
西陣の山名氏との出会いと対話という時空往還を体験した柾樹は、それから僅か数日後に、その山名氏自身の没落を決定づけた大事件の端緒を報じる石碑に出くわすことになろうとは思いもよらなかった。
その日、柾樹は、マンションから歩いて十分もかからない場所にある「楽美術館」に向かおうとしていた。焼物好きの柾樹にはたまらない好企画「秋期特別展 楽と永楽そして仁清 京の陶家『侘と雅』の系譜」展が開催されているのを見に行くためだったのだが、ちょうど一条戻橋の前で東に折れて目的地に向かおうとしていた柾樹の目に、まだ設置されてさほど時間の経ってはいない感じの一本の石碑が飛び込んできた。
「おや、民家の塀にくっつくようにしてこんな石碑があったとは知らなかったな」とつぶやきながらその石碑に近づいてみると、右側面に何やら文字が彫られている。
「此付近応仁の乱洛中最初合戦地」
石碑のすぐ横に設置されている説明書きを読むと、応仁元年(1467)5月26日に、東軍細川勝元方の京極持清が、この石碑の立っている前の道を通って一条戻橋から西軍に攻め入った、とある。柾樹の脳裏に、あわただしい雰囲気の中でしばしお茶を共にしながら話しこんだ山名持豊公の穏やかな表情が鮮やかに甦った。
あの日の光景は、赤松討伐に出陣しようとしていた1441年のことだったから、この石碑に書かれている「応仁の乱の洛中最初の合戦の火蓋」は、実にそれから26年後に切られたことになる。あの時、柾樹を山名邸の中に迎え入れてくれた屈強の武者も、ベテランの侍大将としてこの戦さに参戦していたのだろうか、あの時あの場にいた人々は、四半世紀の歳月を経て京都中を焼き尽くすこととなったこの戦さにどんな思いで身を投じていったのだろうか、と思いを馳せると、歴史で習った一片の知識としての日本史とは異質のリアリティが一筋の煙のように立ち昇り、柾樹はしばしその石碑から離れることができなかった。
面白いことに、この石碑は三面を使ってこの場所の歴史的事実を報じている。応仁の乱での洛中最初の合戦地であることを伝える右側面のほかに、正面には「此向かい 近衛堀川屋敷跡 小松帯刀寓居参考地」と、また左側面には「藤原道綱母子 源 頼光 一条邸跡」と彫りこまれており、この辺りが、平安から江戸幕末に至るまで常に歴史の表舞台であり続けてきたという史実が巧みに表現されている。歴史地理研究者の中村武生氏が、この石碑に「当地付近は千年におよぶ、たえまない重要な歴史の舞台地であった」と記されていることに柾樹も強い共感を覚えた。
ところで応仁の乱自体が勃発した地点は、この石碑の立つ所から北東にかなり離れた上御霊神社の建っている辺りとされる。その場所は「御霊の森」と呼ばれ、上御霊神社の鳥居の右横に立つ駒札「応仁の乱 勃発の地」の記載によれば、文正2年(1467)正月の18日朝に、この地で応仁の乱の合戦の火蓋が切られたとある。
合戦の前日深夜に畠山政長は自邸を焼き払い、一族郎党や奈良の援軍ら兵約2千を率いてこの場所に布陣。これに対して、翌18日早朝、畠山政長と家督を激しく争っていた畠山義就が兵3千余りで攻撃を仕掛け、終日激戦を交えたそうである。義就方には、朝倉孝景と山名宗全の命を受けた山名政豊が加勢、一方、政長方には頼みの細川勝元がまだ動かなかったため、政長は退却を余儀なくされたという。
が、その後、細川陣営が臨戦態勢を固めた結果、5月からは、上京を中心に、将軍足利義政の後継者争いも絡み合って東西両軍の全面的な戦が展開することとなり、その洛中最初の合戦地となったのが、柾樹の見つけた石碑の立っている場所だったのだ。
爾来この戦で京の都は疲弊し、室町幕府の権威は失墜、厭戦気分の広まる中、細川・山名両陣営に和睦が成立したのは、御霊の森での戦い勃発以来実に丸10年を経た文明7年(1477)のことであった。柾樹が親しく面談したあの日の山名持豊には、やがてそんな時代の風が己の身に吹くことになろうとは思いもよらなかったに違いない。あの時、柾樹は、その未来を彼に告げるわけにもいかず、目の前で屈託なく笑う持豊に複雑な思いを禁じえなかったことを、今はただ振り返るばかりである。
◇ 足利歴代の盛衰
一条戻橋界隈で印象深い石碑に遭遇してから何日か経ったある日、柾樹は、山名氏との話の中で登場した足利家を代表する2人の将軍が住んでいたという場所に無性に出かけてみたくなった。
まず、柾樹のマンションから今出川通を東に5分も歩くと、かつて「花の御所」と呼ばれていた三代将軍義満の政治的拠点跡に辿り着く。が、そこが「花の御所」跡だという事は、今出川通に面して営業している理髪店の店先にポツンと立てられている1本の石碑によって辛うじて確認されるだけである。
大正4年11月に京都市が立てたその石碑には「従是東北 足利将軍室町第址」と書かれてあることから、おそらくはそこを南西の隅として、東は烏丸通、北は上立売通あたりまでの広大な敷地にその遺構があったものと思われる。が、今日、誰ひとりその石碑に目を留める人とていない中、かつてこの辺りには、自ら日本国王を名乗って大陸との交易に情熱を燃やしたとされる足利三代将軍義満の気宇壮大な覇気が充満していた、などとは想像もできなくなっている現実に、柾樹はがっくりと肩を落とした。
そのあと柾樹は、山名持豊の敬慕する足利家初代将軍尊氏の邸宅跡に向かうことにした。京都造形芸術大学五島邦治客員教授によると、御池通と高倉通が交差する東南角の御所八幡神社が鎮座するあたりに尊氏は邸宅を構え、そこを室町幕府の拠点としていたという。さすがに柾樹のマンションから歩いていくには遠すぎるので、「花の御所」跡から一旦マンションに戻り、愛用の自転車にまたがって一路御池通へと南下していった。内心、室町幕府を開いた初代将軍の邸宅跡であれば、三代将軍の義満の邸跡よりはそれらしい雰囲気が残ってもいよう、と期待に胸を膨らませながら・・・。
が、ようやく目的の御所八幡神社に辿り着いた柾樹が放った第一声は「なんという狭さだ」だった。この地で尊氏が室町幕府を開いた、という由来からすれば、当然それなりの構えと広さを誇る境内があり、そこに風格ある社殿が威容を誇っていてしかるべし、と予想していた柾樹の読みはここでもあえなく外れてしまった。
御所八幡神社前に立てられた案内板「御所八幡宮」によれば、もともと尊氏の屋敷内にあったこの神社は、今の場所よりも一筋東側の御池堺町西南角の御所八幡町に建てられていたが、太平洋戦争中に御池通の強制疎開によって今の場所に移されたとある。
その他の記述等をも総合すると、尊氏の屋敷兼幕府は、このあたりから少し南に下がった三条高倉あたり一帯に広大な敷地を有し、その一隅に源氏の守護神としてこの八幡社が祀られていたようだ。その当時は当然それなりの規模と格式を誇っていたであろうこの八幡宮に、尊氏は、開府早々の苦難の解決や幕政・軍政の首尾よろしきを祈願していたことであろう。
が、足利幕府開府の現場の一隅にあって威光を放っていたはずのこの御所八幡宮も、今では、前の御池通の幅広い歩道を行きかう人々がその足を止めてここに立ち寄ることなど殆どなく、この狭い境内でたまに開かれる小さな骨董市で少しは賑わう日があったとしても、かつて武家政権の理想を担わんとこの地で新政権を興した尊氏の熱い思いを人々が感じ取るような気配は、どこにも見当たらなかった。柾樹は、そんな境内の一角に掲げられた古びた「鏑矢」に、辛うじて尊氏のかつての心意気が宿っているような感懐を抱きながら、人っ子一人いない狭い境内にしばしたたずんでいた。
室町幕府の二大将軍 尊氏と義満の邸跡が今日これほどにシャビーであることをどう考えればいいのだろうか。もしや、足利幕府が後醍醐天皇に反旗を翻した上で成立したという歴史的事実を有するがゆえに、後世、その忠誠心を疑われるような雰囲気につきまとわれたことと何らかの関係があったのだろうか・・・。あの山名持豊が同時代人としてああまで慕っていた尊氏公が、それではあまりに気の毒ではないか・・・。柾樹は、複雑な思いを胸に、神社脇に停めていた自転車に戻った。
尊氏の屋敷跡「御所八幡宮」から堀川今出川のマンションまで帰るにあたり、柾樹は、室町通を北上するルートをとった。丸太町通を越えるとやがて通りの左右に平安女学院関連の建物が目に入ってくる。柾樹は、正にその一角に、今、政権の命脈を絶たれんとする足利家の最後を象徴する2つの石碑が立てられているのを発見し、ギクリとした。その2つの石碑からは、足利初代将軍尊氏と三代将軍義満の二人の無念の思いがひしひしと伝わってきたからだ。
2つの石碑のうちの一つは、通りの東側にあって、
「此付近 斯波氏武衛陣・足利義輝邸 遺址」と刻され、いま一つは、通りの西側にあって、
「旧二条城跡」と刻まれている。それぞれに添えられた案内板を要約すると、その昔、ここには、次のような歴史が流れていたことが読み取れる。
東側の石碑の「斯波氏武衛陣 遺址」は、三管領筆頭で室町幕府「第一の家格」を誇った斯波義将(1350~1410)がここに居を構え、宮中御所等の護衛の役所兵衛府(その唐名を武衛陣と呼んだ)を取り仕切る任にあたっていたという重要な場所であった。
が、その役所跡「武衛陣」は応仁の乱で消失してしまい、後年、室町幕府第13代将軍足利義輝(1536~65)がその跡地に邸宅を構えて政務をとることとなった。それが案内板の後段の「足利義輝邸 遺址」と書かれている意味だ。
「そうか、そうだったのか」━ 柾樹はここに邸を築いた義輝の気持ちを即座に読み取った。もはや室町幕府の衰退はとめようもなくなっていた時に将軍の地位に就いた義輝は、足利幕府創立当時の尊氏の邸宅跡にほど近いこの場所に自らの屋敷を構えることによって、かつての足利家の勢いを取り戻そうとしたのだ。が、その健気な思いも空しく義輝は松永久秀らに襲撃され、わずか29歳にしてこの地の露と消えた。時の流れの厳しさと義輝の無念さを思い、柾樹は思わずその場で合掌した。
もう一つの石碑の「旧二条城跡」とは、義輝没後4年目の永禄12年(1569)、その邸跡であった旧武衛陣跡地に、織田信長が室町幕府最後の第15代将軍足利義昭(1537~1597)のための城郭「旧二条城」を建設した場所であることを示している。
が、その義昭も程なくこの旧二条城から放逐され室町幕府は滅亡。旧二条城もまた天正4年(1576)には解体され、安土城築城の建築資材に供されてその命脈を絶ったとある。
柾樹は、この2つの石碑から、当時の激動の時代に生き残ることがどれほど大変なことであったのかを感じとって、深いため息をついた。もはや没落の流れを押しとどめることなど不可能となっていたこの時期に、それでも足利の天下を守り続けたいと考え、この政治拠点に拠った二人の将軍 義輝と義昭の日々を偲びながら、柾樹は、室町幕府という特異な政権に改めて思いを馳せ、日本の中世というものをもう一度勉強してみたい、という強い衝動に駆られていた。
ところで、前述の五島先生によれば、尊氏の没後、その邸宅は「等持寺」という寺院に改められたとされる。柾樹は、その「等持寺」と、洛西の地にあってその美しい庭園で知られる「等持院」との関係がむしょうに気になって、翌春、自転車で「等持院」まで出かけていった。
暖かい春の陽気にペダルも軽く、洛星高校の校舎を取り囲む枝垂れ桜の美しさや、登録有形文化財の建物となっている木島櫻谷(このしまおうこく)邸のたたずまいの素晴らしさなどを満喫しながら、やがて民家と民家に挟まれたような細い道に進入して、ようやく等持院の山門前に到着した。
門前に建てられた京都市の駒札によれば、尊氏は、生前、仁和寺傘下の一院を夢窓国師を開山として中興し、足利家の菩提寺である中京区三条高倉の等持寺の別院としたと書かれてある。
それから17年後に尊氏は亡くなり、その亡骸はここ等持寺の別院に葬られたのだが、その時に、尊氏の法名をとってその別院の寺号を等持院と改め、さらにその後、その等持院が本寺である等持寺を統合して今日に至ったという。
夢窓国師が作庭したといわれる美しい等持院の池泉回遊式庭園の一角に、高さ五尺の宝筺印塔の尊氏の墓が静かに建っている。柾樹はその墓前に手を合わせながら、尊氏の御霊にそっと語りかけた。
「本当に凄まじい一生、本当に休むことなき一生、本当に物思うことの多かった一生でしたね。でもその一生をあなたは真剣かつ見事に生き抜かれました。そのあなたの生き様に私は改めて心から敬意を表したいと思います」と。
突然、池の鯉がバシャっと水面に飛び跳ねた。今しがた尊氏の墓前に真摯な思いを伝えたつもりでいた柾樹に、その鯉がまるで「よくもまあ一知半解で尊氏公にそこまで語りかけますね」と言ったような気がして、柾樹は思わず顔を赤らめた。
と、その表情がどこかから見られていたのだろうか、柾樹には聞き覚えのある声が、突然その耳に飛び込んできた。
「鍛心庵様も持豊様と同じように尊氏公がお好きなんですね」
( 次号に続く )