堀川今出川異聞(16)
いわき 雅哉
第三章 時空往還
持豊公 陣中の閑(3)
柾樹がその一挙手一投足に目を奪われた目の前の女性は、忘れもしない秋の時代祭を見ての帰り道に、突然柾樹の背後から「時代祭りは初めてでしたか」と声をかけてきたあの人だ。あの時、時代祭に登場してきた先人の足跡に興奮し、馬の闊歩するさまを真似ながらマンションまでの帰途についていた柾樹。その余りにも幼稚に喜び勇んで歩く姿に、いい歳の大人がこれではいかんと感じたからか、聡明で深みのある言葉で柾樹の浮かれた様子に釘をさし、それでいながら「秋には秋のものを満喫なさいませ」という言葉を最後に忽然と姿を消したその人が今、目の前に居る。「夢なら覚めるな」- 柾樹はそう念じて静かに目を閉じた。
柾樹のその様子に、持豊公が声を発した。
「いかがなされましたかな、鍛心庵殿。ご気分でもお悪うございましょうや」
「いや、これは失礼いたしました、ついつい」
と、柾樹が言いかけて目を明けると、またしてもあのたおやかで美しい人の姿はなく、ただ柾樹の目の前に据えられたお茶碗から、湯気が立ち上がっている。
「あれ、さきほどの女性はどうなされましたか。お茶をご用意いただいたお礼も申し上げないうちにお下がりになりましたか」
「おお、モエのことでござるか」
「モエ、あの方はモエと言われるのですか」
「さよう、草カンムリの下に日と月を書いて『萌』と呼んでおりまする」
「『萌えいずる春になりにけるかも』の萌ですね、いいお名前だなあ。それにとても美しいお方でおられます、京のお方ですか」
「いや、あれは堺のさる豪商の娘でござるが、都暮らしをさせてみたいというあれの父親からしばらくの間この家であずかってほしいというので、まあ好き放題にさせておりまする。なに、鍛心庵殿には萌のことがお気にかかりましたかな」
この一言で、柾樹は赤面し、「気にかかったなどとは、とんでもございません。ただ、あのような美しい方に初めてお目にかかったので、ついついお伺いしたまでのこと」と心にもない返事をしてしまった。
が、海千山千の山名氏のことだ。問わず語りに萌の人となりを柾樹に聞かせながら、思いとはうらはらな返事をした柾樹の気持ちを揺さぶってくる。気にしていないと答えたはずの柾樹が、萌のことについて話す持豊の言葉を一言も聞き逃すまいと必死の形相でくらいついてくるさまを、持豊は素知らぬ顔で受け止めながら、柾樹の本当の心根などとっくに見抜いている風だ。
「萌は実家でそれなりのしつけや学問も受けてきておりますので、知的な面ではなかなかの優れ者ですが、それでいてなかなか茶目っ気なところがありましてな、面白いことを言ったり、人が思いもつかない観点からものを見たり考えたりで、話していて人を飽きさせません。さすがは商家の娘でございます。もっとも、鍛心庵殿は、萌のことをあまり気にはおかけにならないとのことでしたから、それ以上には申しませんが、もしお気に召していただけたのであれば、鍛心庵殿には、ぜひ萌を鍛えてやっていただければ、と思うておりました。それで本席にまかり越させましたが、まあ、みどもの身勝手な思いでござったようで・・・」
柾樹は、「しまった」と思った。なぜ、正直に気持ちを伝えなかったのか、なぜ、今日が初めてではないことを話さなかったのか、その時以来ずっと会いたいと思っていたところに突然再会の機会が訪れたため「ついつい平常心を失って心にないことを答えてしまいました」と、なぜ素直に思いを伝えなかったのか。
そんな柾樹の気持ちを百も承知の上なのかどうか、山名氏は、「いやいやとんでもない方向に話が行きました。せっかく今の世情の気になるところなどをお話することで、みどもの頭の整理も進めようと臨んでおりましたものを、たかがお茶一服で気が散るようでは、お互い益荒男としてはいただけませぬなあ」などと、いかにも柾樹の心の内を見透かしたかのように、話題を変えようとする。
が、もはや柾樹の心はここにない。山名氏と対坐してはいるが、萌のことしか頭にはない状態で、全ては上の空だ。それを知ってか知らずか、山名氏は、またまた大きな話をし始めた。
「鍛心庵殿、みどもは、このところこの国の越し方を振り返ってみて、改めて、秩序・安定の時代と、変化・動乱の時代が一定期間ごとに入れ替わり、その潮目や時代の特質を見誤った者は滅び、逆に、正しく読み取って果敢に行動した者は大きな力を手に入れてきたことに強く感じ入っており申す」
「・・・・・・・」
「申し上げるまでもなく、今は、変化・動乱の時代。そういうご時勢では、秩序・安定の時代とは異なり、権威の否定、過去の価値観の破壊が進み、それまでの時代感覚からは思いもよらなかったことが平然と起こされる世となり申そう」
「・・・・・・・」
「それゆえあながち赤松を責めるわけにもいかぬのだが、みどもにはこの機に赤松を討つことが山名の当主として果たすべき責務と心得て出陣いたすもの。家臣達には単純に『弔い合戦』だと命じおるが、腹はもっと複雑にござる」
「腹はもっと複雑、と申されますと?」― ここで、柾樹は初めて口を開いた。さすがに「腹はもっと複雑」というセリフを聞き逃すわけにはいかない、と思ったからだ。
「ご承知のように、山名は、大叔父氏清の時に、全国の所領の6分の1にあたる11カ国を拝領し、六分一殿とまで言われる隆盛を極め申したが、その勢いに懸念を覚えた三代将軍義満公の謀略で、一族相食む争いとなり、氏清は落命、その敵として戦った我が父が継承した所領地はわずか3箇所と、往時の4分の1に削られてしまうなど、山名の家はもう終わりとさえ言われ申した。将軍家からは、それほどの辛酸をなめさせられたのでござる」
「そうでございましたか」
「さらに、夫氏清の敗死を知った大叔母は追いかけるようにご自害なされたが、その大叔父・大叔母の間に生まれた娘こそがわが母でござった。氏清はその意味では大叔父であると同時に母方の祖父ということになり申す。山名の今は、この祖父夫妻の悲劇と、我が父の苦しみ、母の苦悩や心痛の上に、再興されたものと申せましょう」
「そんなことがあったとはつゆ存じ上げませんでした」
「おや、鍛心庵殿は氏清のことをご存知ではなかったのでござるか」
「いや、山名氏といえば、宗全公とばかり」
と言いかけて、柾樹は、今、目の前にいるのが宗全の出家前の持豊であることを思い起こし、あわてて、「なにしろ山名氏といえば、持豊公と思っておりますゆえ」と取り繕う。
山名持豊はそ知らぬ顔で、
「いや、それはお心にもないことを。今のみどもがあるのは、大叔父氏清の存在あってのこと。氏清抜きでは山名の家は語れませぬ」
「は、そう言われればそうですね。いや全くその通りで・・・」
そう答えながらも、学校で習ったのは、山名といえば山名宗全であって、「一色・京極・赤松と共に、幕府の要職についていた室町時代の守護大名の一人」くらいに覚えてさえおれば、日本史の試験はパスできた。だから、それ以外の山名ファミリーの名前など全く記憶にない。そんな「一知半解」の知識だけで、今、目の前にいる剛の者山名持豊と話し合っている自分が柾樹はそら恐ろしくなってきた。柾樹のこの知ったかぶりに持豊が気づいたら態度を一変させるかもしれないと思ったからだ。
が、一方で目の前の持豊の人となりに惹かれて行く自分がいて、柾樹は逃げ出したいくせに話の深まるような方向へと質問を発していってしまう。その心のどこかに、萌が住んでいるこの邸に少しでも長く居たいとの思いがあったのは言うまでもない。少し長居すれば、お茶をもう一杯立ててくれるのではないか、との思いと共に。
「大叔父様もさることながら、お父上のご苦労も大変なものがございましたんですね」
「いかにもそのとおり。が、この時の我が父 時煕は立派でござった。この事件以降、父は、心を石のようにして将軍家に仕え、体を張ってその信頼を勝ち取ってこられた。みどものような単純な人間なら、そうまでは心を殺せぬが、この父の覚悟のおかげで山名は所領の復活や高い職位への取立てが叶い家の復権が果たせ申した。この時の父の忍び難い思いと覚悟を我々は決して無駄にしてはならぬ。そう思うて、今回の赤松討伐も、みどもが先陣を切らねばならぬと腹を固めた次第。『弔い合戦』と口で言うはたやすいが、過去の山名の歴史を骨の髄まで知りぬいた山名の人間として固める決意と下知は、決して生易しいものではござらぬ」
自分で気楽に質問しておきながら、圧倒的迫力で返答してきた持豊の凄さに、柾樹は、押し潰されそうになった。と同時に「一知半解」でも気楽に生きてこられた柾樹のこれまでの人生観をもってしては、しばし次の言葉を紡ぎだすことができなかった。
命を賭けて戦ってきている当代一の守護大名が目の前で放つオーラは余りにも強烈で、柾樹は、自分の体がその場で溶け落ちて消滅してしまうのではないかとの錯覚に陥ったほどだった。
柾樹が今日はじめて聞かされた宗全の大叔父で母方の祖父にあたる氏清という人物の名前には、後日、西陣の思わぬところで出くわすこととなる。だがこの時はまだそんなことなどつゆ知らず、少し聞いたくらいではよくわからない山名という家の複雑な歴史に当惑しながら、柾樹は相手の顔色に応じて話を合わせる己の調子よさに、恥ずかしさと自己嫌悪の念を抱き始めていた。
そんな柾樹の気持ちを知ってか知らずか、持豊は口を開いた。
「いやいや、山名の家の歴史を話すとつい気持ちが高ぶってしまい、申し上げる必要のないことまで申し上げてしもうた。お忘れ下され」
「滅相もございません。こちらこそ『腹はもっと複雑』と言われたことが少し分かりにくかったものですから、つい無遠慮にお聞きしてしまいました。非礼をお詫びいたします」
「腹はもっと複雑、と申し上げた背景には、ただただ山名の家の目先の利益を思う故だけではなく、さきほどお話したような時代の特性を踏まえ、権威の否定・過去の価値観の破壊が進む世にあって、山名の家のあり方を再構築するために臨む戦い、という考えも籠めたつもりでござる」
「そういうことだったのですか」
柾樹は、命を張って時代を生きてきている人物の持つ知恵の深さや器量の大きさに触れ、改めて畏敬の思いを抱いた。たしかに怖いのだが、奥が深いのだ。
「いや、これは、みどもの心の奥にしまったまま、誰にも言うまいと思うていたことを、鍛心庵殿の口車に載せられて、ちとしゃべりすぎましたわい」
と、持豊は赤ら顔を撫で回しながら照れ笑いをして見せた。
柾樹の体は緊張で汗だくとなっていた。
が、今日の持豊は機嫌がよいのか、お茶を美味しそうにすすりながら、庭と柾樹とを交互に見て引続き会話を楽しもうとしている。
そのタイミングを見て、柾樹は、思い切って切りだした。
「萌様にもう一服お茶を所望してもよろしゅうございましょうか」
はたして持豊は、ぎろりと柾樹を睨み据えたかと思うと、破顔一笑してこう言った。
「お茶をご所望か、それとも萌をご所望かな」
( 次号に続く )