堀川今出川異聞(13)
いわき 雅哉
第二章 閑話休題
◇喫茶店姉妹の示唆
自分の部屋に「鍛心庵」と命名するようになってからの柾樹は、それまでとは見違えるほどに元気を取り戻した。こんな僅かな変化で一人の人間がこうも変わるものか、と柾樹は自分でも不思議な気がしたが、暗いよりも明るい方がいいに決まっている、と単純明快に現状を肯定し、日々張り切っていた。
そんなこともあって、そもそも今の元気への変身のきっかけをもたらしてくれた晩夏のあの謎の托鉢僧が後半部分で柾樹に語った「心して西に向かわれよ。さすれば、お手前の心の壁は取り払われ、知と情の高まりはお手前の世界を大きく広げることとあいなろうぞ」という言葉の意味を深く詮索することもなく、とりあえずは目先の幸福感をもってよしとしている有様だった。
が、ある日、「もと橋」でモーニングをとっていると、ふいに「そう言えば、あの托鉢僧が言った『西に向かえ』とはどういう意味だったんだろうか」という疑問が頭をもたげ、いつになく無口になって、その意味するところを探ろうと考え込んでしまった。
そんな柾樹の様子を見逃すようなママではない。
「淡見さん、今朝は、えらいおとなしおすな」
「ん? あ、いや、ちょっと考えごとをしてたんでね」
「モーニング食べながら、何をそんなに考えることありますのん」
「そりゃ、ま、色々とね」
「淡見さんもいろいろ大変なんやねえ。それはそうと、淡見さん、以前に比べたらずいぶん元気になりはったやないの。ひところは顔色も悪うてあんまりしゃべりはらへんかったさかい、どっか悪いんちゃうか、て妹と心配してましてんえ」
「そう、夏の終わりから秋の初めごろでしょ。実際、あの頃は最悪でしたよ。でも、その時にお二人そろってそんなに僕のことを心配してくれてたんですか」
「そら、もう。ねえ、サっちゃん」
「そうやあ。せやかてあの頃の淡見さんて、ほんまどないしはったんやろいう感じやったたもんねえ、姉ちゃん」
「そうでしたえ。ほんで淡見さん、あれは結局何でしたん? まさか京都で好きな人がでけたけど振られたとか」
「おっとドンピシャですよ」
「そら淡見さん、嘘やわ。失恋やったらあんな表情にはなりまへんえ、ねえ姉ちゃん」
そんな方向へと話が向かい、柾樹も苦笑いしながら、
「ヘエー、ママたちはカウンター越しにお客さんのそんなことまで分かるんですか」
「そらわかりますよ。伊達に客商売してしまへんよってになあ」
「そこまで見通されたら嘘はつけませんね。失恋だったら嬉しいんですが、ま、心身ともに参る夏バテだったんでしょうね」
「夏バテですかあ。そう言われてみたらそうやったんかなあ。ほんま京都の夏はたいがいきついもんねえ」
「いや、ほんとにきつかったですよ。もう本気で東京に帰ろうと思いましたからね」
「そうどしたんか、せやけどまあよう頑張りはったやないの」
「うん、もう限界だな、と感じてたんだけれど、ちょうどその時に、ちょっと不思議な体験をしましてね」
「不思議な体験?」
「そう、元気をなくしている僕に、ある人が気合を入れてくれましてね」
「知ってるお人?」
「いや全然知らない人」
「淡見さんの全然知らんお人が、淡見さんに気合を入れはったんですか」
「そう。それでその人がね、本当に自分を高めようと思ったら『心して西に向かえ』と言ったんですよ」
「一体、何屋さんですの、そのお人は」
「何屋というか、商売人ではなかったんですけどね」
「西行け、西行け、て、まるで西方浄土を説くお坊さんみたいな人でんなあ」
「近い」
「近い、て、西方浄土へ行け言わはるんやったら、それは死になはれ、という話どすえ」
「いや、そうじゃなくて、西に行くと僕の頭も心もレベルアップして世界が広がるぞ、というような話をするんですよ」
「一体、そのお人は、何を根拠に『西に向かえ』と淡見さんに言わはったんですか」
「いや、そこがよく分からないんだけれど、何か気になってね」
「何ですのん、そのけったいなお話は。そもそもどこの誰かも分からん人に言われたから言うて、淡見さんもようまあ真剣に考えはりますねえ」
「いや何か心に引っかかるものがあったもんでね」
「引っかかりはるのは自由やけど、適当にしときはらんと」
「ま、適当に、とは思ってるんだけど、そう言われるとちょっと西が気になるもんね」
「ほんならほんまに西に行ってみはったらどないですか」
「うん、一応、西の方には行ってみたんですよ」
「そらまた素直な。ほんで西の方て、一体どこまで行きはったんですか」
「いや、もともと京都に来たら行ってみたいと思っていた場所が今のマンションからちょうど西にあったので、ひょっとしてそこかなと思って行ってみたんですよ」
「せやから、そこはどこどしたん」
「ん、いや、北野天満宮だったんだけれどね。ちょうど紅葉の夜間照明もしていた時期だったので、これ幸いと行ってみたんですよ」
「北野さんですかいな、たしかに北野さんやったら、ほんま真西やわね。今出川通を西に行ったらそのまま大鳥居やさかい」
「そうなんですよ。さすがは全国の天満宮の頂点に立つだけあって、素晴らしいところでしたが、夜の境内ってどことなく怖い感じがして、照明に浮かび上がる紅葉だけ見て帰ってきたんです」
「ということは、北野さんでは別に何も起きへんかったということでんね」
「まあそういうことです」
「で、その話はそれでおしまいですか」
「いや、西に行けと言われて実際に出かけていったのは確かに北野天満宮一箇所だけなんで、さらにこの先、もっと西にまで足を伸ばそうか、と考えているところなんですよ」
「まだもっと西へ?」
「ええ。もっと西に行くとなれば、等持院、妙心寺、龍安寺、仁和寺などがあるので、その辺まで行ったら、その人の言った特別なことが起きるのかな、と思って」
「そらまたえらいとこまで行きはりますねんね」
「とりあえずはその辺りまでは行ってみようかと思ってるんですがね」
「ほんで、行ったらどういう特別なことが起きるんですって?」
「何か心の壁が取り払われるみたいなことを言ってましたねえ」
「なんですの、それ。ますますけったいな話やわあ。淡見さん、あんまりおかしなことに首突っ込まん方がよろしおすえ。京都はほんま摩訶不思議な町やよってにね」
ママが心配してそんな注意をしてくれた時に、横合いから妹が口を挟んだ。
「淡見さん、そら何ぼ何でも西に行き過ぎやわ。そんな遠いとこよりも堀川通りを西に渡った一番手近な西をお忘れではござんせんか、っちゅうねん」
「堀川通りを西に渡ったすぐのところ?」
「そうやあ」
「というと、そこは」
「何をボンヤリしたこと言うてますのん、西陣やないの、ニ・シ・ジ・ン」
「西陣?」
ハムエッグをほうばっていた柾樹の動きが止まった。
一転、姉も妹に加勢する。
「そやわ、淡見さん。サっちゃんの言うとおりや。ここに住んでて西と言われたらそら西陣やて、うちも思うえ。そこを通り越して遥か向こうに行く前に、西陣に仁義切らんとまずいんと違いますか」
「そうか、西陣ねえ。そりゃそうだ。いや、僕としたことがうかつなことだった。答はいつも目の前にあるんだ。堀川今出川に住んでいる者にとって、西とは正に西陣だったんだ。ありがとう。そうだったんだ。いや、ママ、サっちゃん、ほんとに有難うね」
そう言うと柾樹は、まだ飲みかけのコーヒーカップをカウンターに置き、「西陣、西陣」と独り言を言いながら、そそくさと喫茶店のドアを押し開け、外に出ようとした。
「淡見さん、あの、ちょっと、ほれ、言いにくいけど、お勘定」
後ろから聞こえてきたママの声に、柾樹は「ごめん、お勘定まだだったよね」と後戻りし、急いで支払いを済ませると、すっ飛ぶようにしてマンションに帰っていった。
喫茶店の姉妹は、柾樹のその様子を呆れた表情で見送りながら顔を見合わて言った。
「やっぱりどっか変わったはるなあ、あの淡見はんて・・・」
柾樹は、マンションに戻るや、上京区散策マップを広げた。そもそも西陣と呼ばれるエリアは、東は堀川通、北は鞍馬口通、西は七本松通、南は中立売通に囲まれた一帯を指すと言われる。柾樹はその四つの道路に青い蛍光ペンで線を引き、西陣地区を地図上に浮かび上がらせた。
が、その中に向かえば一体何が起きるのだろうかという好奇心と、本当にそんなことをして大丈夫だろうかという不安感が柾樹の心を包み込む。とりわけ臆病者の柾樹にとっては、何が待ち受けているかも分からないこのエリアにその第一歩を踏み出すこと自体まことに勇気のいることであった。
が、ここまでくればもう腹を括って流れに乗るしかあるまい。柾樹はこわごわながらも早速明日から行動を開始しようと覚悟を決めた。
その夜、柾樹は寒さをこらえながら、ベランダ越しに天空の星のまたたきを眺めた。
1200年前から古都に降り注いでいる星の光に柾樹は身を晒しながら、どこからか聞こえてきた「ようやくその時が来たな、いざ明日こそはお手前の晴れの初陣ぞ」という声に、思わず武者震いをしていた。
( 次号に続く )