第20回 百花繚乱
今日から待望の4月です。その暖かさを待ち望んでいたのは、私たち人間だけではありません。植物も動物も正に満を持して、花芽を膨らませ、冬眠から目覚めます。むしろ人間は、自然界に充満し始めるこうした動植物たちからの「満を持した気」を感じ取ることで、かつて洞穴で厳しい冬を凌ぎつつひたすら春の到来を待った太古の頃の感覚を思い起こし、強い刺激を受けるのです。
この日本にあって、そんな春の到来を最も象徴的に告げるのは、言うまでもなく桜でしょう。清流沿いの並木として咲くもよければ、山懐にたった1本で咲くもよし、城郭や社寺の広大な庭園に咲くもよければ、個人の瀟洒なお庭に可愛く咲くもよし、子供たちの歓声が響き渡る公園の植栽として咲くもよければ、訪れる人とていない空き地に咲くもよし、です。
また、その咲き方も、その前日まではそこに桜の木があることに気づかずにいたような場所に、突然パッとあたりが明るくなるかのような雰囲気で開花するのが、桜の花の咲きっぷりの醍醐味で、ちょうどその感覚は、拍子木一つで芝居小屋の舞台中央に突如として満開の桜の情景が現れるような演出にも似て、まさに拍手喝采したくなる風情です。
さらに昔から賞賛の対象となっているように、その散り際の潔さも実に見事なもので、何の未練も惜しげもなく花吹雪・落花の舞いとなって、地上をピンク色に染め上げます。自分の務めを果たした後はかくあるべしと、まるで人に言い聞かせるかのように、です。
このように桜というと、その花の華麗さ・美しさから春の代名詞のように言われますが、秋には「さくらもみじ」と呼ばれるほどに美しく紅葉し、春秋2回も見どころを提供してくれる上、その材質は均質性に富むため家具や造船材として、あるいは版画の版木として最適な素材とされるほか、樹皮は咳どめ、花の塩漬けは桜湯、葉の塩漬けは桜餅、果実は勿論食用に供されるなど、その実用性と言う点でも、実に見事な木と申せましょう。
が、この時期の素晴らしさは、そうした桜のみならず、邪気を払う力があるとされる桃や、「桜桃」と書いて「ゆすら」と読ませるゆすら梅、堅そうな枝に直接無数の花をつける木瓜、などが一斉に花を咲かせ、地上はと見れば、スミレ、レンゲ、たんぽぽ、さくら草などが可憐な花を開いて春風にそよいでいるという絢爛たる風情にあります。
このように、さまざまな花々が一斉に、かつそれぞれ精一杯に咲き誇りあいながら、全体として見事に調和し、楽しくウキウキする感覚を随所にあふれさせている「百花繚乱」の雰囲気をこそ、この国の先人たちはこの上なく愛してきたのです。
実際、花鳥風月を題材に描かれた日本画の世界では、当然、主題として取り上げられているメインの植物が画面の中心に描かれてはいるのですが、よく見てみると、その周囲や地上、時としてメインの木の枝の上などに、他の種類の無数の花々も同時に描かれていて、その全体が、主題として取り上げられている植物を引き立て、気分の高揚を演出しています。その自然のままの色あいの見事な調和ぶりとサイズの大小の取り合わせの絶妙のバランスは、画家自身による多少のデフォルメはあるとしても、基本的には大自然そのものの姿なのです。そこには「雑草・雑木」という発想など一切なく、すべてが全体を構成するかけがえのない存在としてとらえられているのです。
このように、自然界に生を受けたものは、決して主人公とその脇役と言う形で存在することはなく、すべてが主役であると同時に、それぞれがお互いに相手を引き立てあっている名脇役でもあるという、部分と全体の見事な調和の中で、全体としての美しさが保たれ、かつ相互に主張し合っているのです。
本当の美しさとは、単一で整々とした中にあるのではなく、ごちゃ混ぜで混沌としていながらも見えざる調和がとれている中にこそあるのだ、という真理を、私たちの先人は自然界から学び取ってきたからこそ、封建時代にあっても、地位や身分を越えて有為の人材を起用し、庶民もそれを称えるなど、ごちゃ混ぜの価値、さまざまな才能や役割の相互作用の意義を大切にしてきたのです。
と同時に、そうした穏やかで麗しい状況だけが真実ではないことも、自然界は教え諭してきました。一瞬の春の突風で美しい花は散り、果実が結べなくなる不幸が起きる。その明日をも知れぬ大自然の脅威と、そうだからこそ、今この一瞬の「刹那」にこそ、美しさが宿っていることを感受し、しばしの命の尊さを堪能しなければ明日はない、との思いの大切さを私たちは教え込まれてきたのです。正に、「月に叢雲、花に風」の世界観です。
が、大自然によるこうした貴重な学習効果も、その意義や価値を意識しなくなるとその本質はやがて忘れ去られるようになります。往時に比べて科学技術の著しい進歩と、自由で制約のない豊かな社会が確立して久しいにも関わらず、今日、その場しのぎの風潮やリスクに対する認識の脆弱さが目立つようになり、花見酒には酔いしれても、その背後から忍び寄ってきている危険性には目をつぶって平気でいられるようになっているのは、一体どうしたことでしょう。
自然界が教える躍動と緊張、生まれ出てきた幸せと何ごとも刹那の連続であるという命の儚さに、私たちがもっと強い思いと高い意識をもって臨まなければ、昔のこの国の人々が大切にしてきた真の美的センスや鋭い感性を、後世の私たちが継承していくことは次第に難しくなってきているのではないか、と考えるのは、思い過ごしに過ぎましょうか。
( 平成27年4月1日 記 )