第15回 2・4・6・9・11

 

信長も西を向いて感懐を深めたであろう長良川河畔の夕日  撮影 三和正明

 

 11月と聞くと、ついつい頭に浮かんでくるのが、タイトルに掲げた数字です。これをご覧になって即座に「ニ・シ・ム・ク・サムライ」とお読みになった方は、関西ご出身ではありませんか。

 この符丁をご存じの方には改めて申し上げるまでもないことですが、この数字は、1ヶ月が31日未満のいわゆる「小の月」を時系列的に並べたもので、子供が「小の月」を覚えるためにちょっとした工夫を加えることによって、見事な語呂合わせの言葉に仕立て上げた庶民の知恵の産物となっているものです。

 その「ちょっとした工夫」とは、最後の11月の11という数字を漢字で書いて武士の「士」すなわち「サムライ」と読ませる、というもので、その結果、単なる「小の月」の羅列が、「西向く士(さむらい)」という口調・リズム感ともにまことに覚えやすい言い回しとなって広まりました。

 それはちょうど奈良時代の始まりである710年を「奈良のナット売り」、また平安遷都の794年を「ナクヨ鶯、平安京」と覚えたのと同じことなのですが、私にとっては、数字を文章化して覚えるという手法として最初に覚えた語呂合わせがこの「ニシムクサムライ」であり、とりわけ「11」と言う数字を漢字に変換させるという手の込んだ手法によって見事な語呂合わせの名作に仕立て上げられたことに、その当時、いたく感心した記憶から、冒頭「11月と聞くと、(この数字言葉が)ついつい頭に浮かんでくる」と書いた次第です。

 ところで、大阪生まれ・大阪育ちの私は、周囲の人間が皆そうであったように、幼い頃に、誰からともなくこの言葉を教わり、「小の月」の認識には何一つ苦労せずに過ごしてきた結果、およそ「小の月」を覚える方法は、全国どこでもこの言葉によっているものとばかり思い込んでおりました。

 そんな私が社会人となり、大阪圏を離れた生活が始まって色々な出身地の人々と接するようになりだしたある日、何かの拍子で、私がこの言葉を口にした瞬間、「何、それ」と怪訝な表情で聞き返された時から、実は、この語呂合わせ認識手法は全国区のものではなく、方言と同じように、どうも関西中心のものなのではないか、と気づかされたのです。

 たとえば東京では、大阪のような語呂合わせ言葉の代わりに、握りこぶしの指のつけ根の関節の盛り上がり(凸)と、指と指との間にできる谷間部分(凹)を使って、凸が大の月、凹が小の月というように「小の月」を認識するといいます。

 これも単純に往復してしまうとずれてしまうので、人差し指のつけ根の関節からスタートして小指のつけ根でユーターンしてくる時に、小指上で往路1回・復路1回の計2回分をカウントする、という小技を駆使して正確に「小の月」を認識するのがミソで、長じてこの方法を初めて教わった私は、よくまあそんなにうまく凹凸のへこんだところが「小の月」になるものだな、と感心したものです。

 と同時に、この「小の月」の認識方法の東西の違いから、大阪流の暗記法はいかにも言葉遊びの文化圏にふさわしく、関東流の認識法は「男(女も)は黙って(サッポロビールならぬ)握りこぶし」の文化圏らしいな、などと妙に納得したものです。

 どうも自分自身のわずかな経験をもとに、大胆にも「小の月」の覚え方の地域性を断定してしまっておりますが、この言葉が秀逸の語呂合わせであるにもかかわらず、手元の広辞苑(第4版)や国語辞書にその記載が見当たらないことからも、たしかにこれが全国共通のものではないらしいことは間違いないようです。

 このため、昔の人が、単に「小の月」を覚えるという技術的な機能以外に、この表現に託して何かを伝えようとする意図があったのか、あるいは、一見、単なる戯言に見えてその実この言葉に深い背景や意味を込めていたのか、など、は全く謎のまま今日に至りました。

 そんな経緯もあって、この「ニシムクサムライ」には、単に「小の月」を覚えるための語呂合わせとして片づけてしまうには勿体ないほどの深い味わいが秘められているのではないか、というような気持ちが昂じてくるようになり、この言葉の奥に先人達がメッセージとして伝えたかった何かを嗅ぎつけずにはいられなくなってまいりました。

 そのように感じる最大のポイントは、他ならぬ「武士が西を向いている」という情景です。「いつ、西を向いているのか」と聞かれて「今でしょ」と答えるのはテレビの見すぎですが、武士が西を向くタイミングとしてはやはり夕方がもっともふさわしいように思えてなりません。西空を茜に染めて一日の終わりを告げる夕焼け雲を、武士がじっと見つめている・・・。この言葉からそんな光景を想像する時、そこに漂う無常の空気感がひしひしと伝わってきて、言葉を失います。子供の頃、覚えたてのこの言葉をキャーキャー言いながら口ずさんでいた雰囲気とは全く異質の世界をそこに感じ取って、慄然とします。

 もともと武士は、戦において人の命を奪うことを余儀なくされてきた職業軍人であり、それゆえに、今、自分が生きているという現実は、とりもなおさずその背後に、自分が打ち果たした人たちが存在しているという、もう一つの現実を前提としている人たちに他なりません。しかも、今、生きているからと言って、明日は我が身というリスクの中に身を置いている以上、明日の朝日を拝することができる保障などどこにもない人たちでもあります。その深くて厳しい生き方の中で、ふと自他への思いを噛み締める瞬間があるとすれば、やはり西方浄土のかなたに夕日が沈まんとする刹那をおいてほかにはありますまい。

 ただの戯言、ただの語呂合わせにしては、あまりに寂しくあまりに哀しい情景描写に、武士の生き方の過酷さを思わずにはいられません。そしてそれが燃え盛る紅葉のやがて哀しい散り際を象徴するにふさわしい晩秋の11月を意味する「士」の位置づけであるとすれば、サムライとは決してなりたくない職業であったに違いありません。

 自分が生き残るために倒さざるを得なかった相手を思い起こす時、当のサムライ達は、夕日にその鎮魂を思わずにはいられなかったことでしょう。そうした体験の積み重ねは、武士を無口な存在にしたでしょうし、笑顔をもその表情から奪い去ったことでしょう。日常的に感じ取られる緊張の連続に、武士は神経をすり減らしていたに違いありません。

 往々にして時代劇やお芝居では、武士が傍若無人に振る舞って農・町民をいじめるシーンが演じられます。たしかに戦闘者としての役割が終わり、平時に慣れ、典型的な官僚社会の一員としての日々を送るようになった江戸後期の武士たちには、戦が常態化していた時代の武士たちとは異質の資質が求められるようになった結果、精神の弛緩を招いた武士も少なくなかったかもしれませんが、それでも幼い頃から藩校に通い、文武の道と志の高さを教え込まれてきた武士階級の死生感は、今日の我々からは想像もできないくらいに厳しいものであったことでしょう。武士を描けば常に大声で怒鳴りまくっているシーンばかりの大河ドラマに真実味が感じられないのは大いに問題ではありますが、それとても、今の我々では、本来ストイックな塊であったろう武士たちの心境や立ち居振る舞いを、たとえお芝居であったとしても、もはや再現できなくなっている証左かもしれません。

 それにしても、こうした武士のような戦闘集団に、源平の昔、熊谷次郎直実が打ち果たした平敦盛への思いに象徴されるような風雅を愛した相手を敬い供養しようとする心があったという事実、はたまた室町時代を創始した足利尊氏が、立場の違いゆえに倒さねばならなかった南朝の雄 楠木正成に寄せ続けた敵ながらあっぱれとの敬意と思慕の念といった高い次元の人間性の発露があったという事実に、深い感動を覚えずにはいられません。

 戦闘のプロとしてただただ野蛮に敵を倒すというレベルから脱し、人としての気高さを失うまいとする生き方を大切にしてきた日本の武士道の高潔さに感じ入ってしまいすぎるのは、たしかに人形浄瑠璃・歌舞伎・講談・浪曲の見すぎ聞きすぎのせいかも知れませんが、そんな高潔で深い心情を失って久しい今日の世相を思えば、心の中を吹く隙間風に、この国の行く末の寂しさが感じ取られていたたまれなくなります。

 いやはや、たかが「小の月」を覚える言葉に過ぎなかったはずの「西向く士」に、過剰な思い入れを抱いてしまったのも、自分自身が晩秋のもたらす憂愁の雰囲気に呑まれてしまったからかもしれません。日本の秋はいよいよ深まるばかりです。

( 平成26年11月1日 記 )