第7回 桃の節句と牛若丸

 

首途八幡宮  撮影 三和正明

 

 数々のドラマに感動したソチ五輪が幕を閉じたかと思うと、早や3月。待ちわびた春の到来に人々の心が華やぐ桃の節句の到来で、巷には童謡「ひな祭り」の歌が雰囲気を盛り上げます。

 そんな女の子の祭事の象徴とも言える桃の節句に、男の子の中の男の子ともいうべきあの牛若丸が関係しているとなると、一体どういうことなの、ということになりましょう。 

 実は、あの牛若丸が、この桃の節句の3月3日に、ある大事件を引き起こしたとの伝聞を今に伝える場所が京都西陣の一角に存在しているのです。

 その大事件とは、幼くして鞍馬山に幽閉され遮那王と呼ばれて長い年月孤独に耐えてきた源氏の御曹司牛若丸が、厳しい警護を掻い潜って大脱走を敢行したという出来事。その史実を今にとどめる場所とは、京都堀川今出川の交差点から少し西の智恵光院通を北に折れてすぐのところに立つまことに小さな神社。鳥居横に記されたその神社の名は「首途」と書いてカドデと読む「首途八幡宮」。

 鳥居横に立てられた駒札には、この場所が平安京造営当時の大内裏の鬼門(東北)にあたるところから、王城鎮護のために大分の宇佐八幡宮より八幡大神を勧請し「内野八幡宮」と呼ばれる神社を創建したが、牛若丸が奥州平泉に趣く際に、ここで道中の安全を祈願して出発(首途)したことから「首途八幡宮」と呼ばれるようになった、とされ、牛若丸を平泉まで案内していった金商人の金売吉次の屋敷もかつてはこの場所にあった、と書かれています。

 この駒札を読む限りは桃の節句のことなど全く触れられてはいませんが、鳥居をくぐってほんの数歩のところに「源義経奥州首途之地」と書かれた立派な石碑が建てられていて、そこには牛若丸の大脱走事件が桃の節句の日に起きたという以下のような故事来歴が刻み込まれています(石碑は平成16年9月に首途八幡宮奉賛会の皆様が建立されたもの)。

「武勇と仁義に誉れ高き英雄、源九郎義経(幼名牛若丸)は高倉天皇の時、
 承安4年(1174)3月3日夜明け、鞍馬山から、ここ首途八幡宮に
 参詣し旅の安全と武勇の上達を願い、奥州の商人金売橘次に伴われ、
 奥州平泉の藤原秀衡のもとへと首途(旅立ち)した。
 この地に橘次の屋敷があったと伝えられ、この由緒により元「内野八幡宮」は
 『首途八幡宮』と呼ばれるようになった。

 時に源義経16歳であった。

 源義経が奥州へ首途して以来830年を記念し碑を建立する」      

 私がこの石碑によってこの伝承を知ったのは、京都洛中の歴史・名勝を毎日のように尋ね歩きたくて堀川今出川界隈での逗留を始めてすぐのことでした。が、初めてこの石碑の銘文を読んだ時に、源家嫡流の九男坊たる牛若丸が五月の節句の日ではなく雅やかな桃の節句の日の夜明けを期して鞍馬山から降りてきた、という記述と、下山してきたその足でこの神社に旅の安全を祈願・参拝してから遠く奥州へと旅立っていった、という誠にのどかな情景描写に、いささか戸惑いと違和感を覚えたことを今もなお鮮明に覚えています。 

 因みに吉川英次氏の「新・平家物語」によれば、この大脱走劇が敢行されたのは、この石碑に書かれている年よりも1年前(承安3年)の6月22日だったと書かれています。その日は例年多くの参拝者・見物客でごった返す鞍馬祭の3日目に当たり、恒例行事の竹伐会に衆人の目が釘付けになっていました。牛若丸はそのタイミングに乗じて源氏の郎党達に守られながら敢然鞍馬から姿を消した、というのです。

 同書に描かれる牛若丸一行の脱出劇は手に汗握るシーンの連続で、その脱走に気づいた山門の兵士たちの捜索活動は徹底かつ長期に亘り、牛若丸側もその執拗な追手の目から逃れるべくまさかと思われるような場所で牛若丸に女装までさせるなど、慎重の上にも慎重を期して追手の目を欺いた、とあります。かくして牛若丸が奥州へと旅だっていったのは、執拗な追手の追及がようやく下火になってからのことだった、と記されています。

 そうした緊迫感溢れる現実的な情景描写に終始したからか、「新・平家物語」では、牛若丸が首途八幡宮で道中の安全を祈願して奥州への旅に出た、というせっかくの美しい伝承には一切触れないままに、その章が閉じられています。が、この神社の由来を知ってしまった私の心のうちには、社頭で旅行安全を祈願し手を合わせるりりしき牛若丸の表情がまざまざと浮かび上がり、日本人好みのこの神社の伝承を裏付けるような証拠がどこかに潜んでいるのではないか、それを探し当てることでこの神社に祈りを捧げた牛若丸の思いの真実が一層奥深く理解できるのではないか、との思いがやにわに強まってきたのです。

 その日から私は、この神社の周辺に潜んでいるかもしれない伝承の裏づけ材料を見つけだそうと歩き回り始めました。鞍馬山から逃げ延びてきたというルートから何となくこの神社よりも北のほうにヒントが隠されているのではないか、と考え、今日はここまで、明日はあそこまで、と北方探索線を拡大していったのです。

 そして遂に某所で、私にとっては決め手と思われる大きな裏づけ材料を発見することとなるのですが、それをここでご披露するには紙幅に限りがありすぎます。その種明かしは、このホームページに4月から連載を開始させていただく小説「堀川今出川異聞」(注)にて、ぜひともご覧いただきたいと思います。 

(注) 小説「堀川今出川異聞」は、私が問わず語りに話した京都逗留談を、私にとっては無二の存在と言っていい小説家 いわき雅哉氏が、独特の面白い小説に仕立てあげてくれたもので、4月から毎月15日発行の本ホームページにて連載を開始いたします。ぜひご愛読の上、ご意見・ご感想をお寄せ下さい。

 それにしても、こうした体験を通じて、日本の説話や伝承、言い伝えの一見あり得ないと思えるような中身が、実はその奥深いところでそうなる必然性を内包しているという事実に、素人であっても時として気づくことができるという楽しみこそが、この国の歴史や文化を愛する者にとってはたまらぬ魅力となっているように思えてならないのですが、果たして皆様のご賛同はいただけますでしょうか。 

(平成26年3月1日 記)