第6回 鬼は外、福は内

 

毎年ユニークな「おかめ福節分会」で賑わう京都千本釈迦堂の国宝本堂 撮影 三和正明

 早いもので、今年もあっという間に1月は過ぎ去り今日からは2月。その2月といえば真っ先に思い起こすのはやはり節分でしょう。

 もともと節分とは、新しい季節が始まる立春、立夏、立秋、立冬の前日を意味する言葉ですが、今日、節分といえば、1年の最初の季節の変わり目である立春の前日のことを特定してそう呼ぶようになり、新春に幸多かれと祈るさまざまな行事や祭礼が全国各地で賑やかに催される日を指すようになりました。

 各家庭でも、炒った大豆を数え年の数だけ食べてその年の無病息災を祈ると共に、「鬼は外、福は内」と大声を上げながら、鬼の面をつけて逃げ惑う標的めがけて思いっきり豆を投げつけ、1年間の不幸や災いを蹴散らします。その光景は、幼い頃の記憶に鮮やかに残っていて、この日ばかりは夜中にどんなに大声を張り上げて力いっぱい部屋中に豆を撒き散らしても、お咎めのない日であったことをまるで昨日のように思い起こします。

 童謡の「まめまき」はそうした情景を楽しく描いた名作で、今もこの時期になると、その歌詞が自然と口をついて出てきます。

     鬼は外 福は内 ぱらっ ぱらっ ぱらっ ぱらっ 豆の音

         鬼はこっそり逃げていく

     鬼は外 福は内 ぱらっ ぱらっ ぱらっ ぱらっ 豆の音

         早くお入り 福の神 

 もっとも、鬼はいつもおとなしく逃げていくばかりではないようで、鎌倉時代の創建になる国宝の本堂が有名な京都千本釈迦堂(大報恩寺)の「おかめ福節分会」では、鬼はなかなか退散してくれません。豆にいきり立つ鬼たちが暴れる中、このお寺の建立にゆかりの福の神であるおかめ福が登場し、鬼を説諭・改心させて、ようやくめでたしめでたしとなる、というユニークな祭事が人気を博しているのも面白いところです。 

 が、総じて、節分では、童謡「まめまき」に歌われているように、怖いはずの鬼が、たかが豆粒を投げられたくらいでさしたる反撃もせずに、こっそりと逃げていくことになっています。また、本来は恐ろしいはずの鬼たちの動作がどことなく滑稽で、いずこの地の節分の行事もいかにも楽しく愉快に演じられます。一体それはどうしてなのでしょうか。

 私は、その謎の中にこそ我々の先人達のつつましやかな願い、この日限りの虚構に遊ぶ健気な想いが秘められていることを感じとって、先人への愛おしい思いを一層強く感じずにはいられなくなるのです。

 そもそも人生には鬼(不幸)と福(幸福)とが明確に区分されて存在しているわけではありません。中国の古い諺にもあるとおり、禍福はあざなえる縄のように相互に入れ替わり立ち代りして私たちに襲いかかってくるのです。人間万事塞翁が馬のたとえにもあるように、不幸と思えたことが明日の幸せの前兆であり、良い事が続いている中に魔物が忍び寄って「好事、魔多し」の事態に追い込まれるのです。 

 先人は、そんな摂理を骨の髄まで知り尽くしたうえで、節分の日ばかりは、敢えて「鬼は外、福は内」という単純な二元論的世界観で迎えようとしたのです。その虚構の演出にしばしの間ひたりたいとの思いの根底には、先人たちが逃れることのできない日々の厳しい苦しみと忍耐の日々が横たわっていたのです。

 天気予報も台風情報もない時代、自分の勘や経験にしか頼るものがなかった日々を生き抜いてきた人々は、待ちに待った春を迎える節分の日だけでも、避けたい鬼は外へ、迎えたい福は自分の側に置きとどめることで、束の間の安心感を仲間と共有したかったに違いないのです。所詮、そんな願望など叶わぬこととは百も承知の上で、共同体の人々と希望に満ちた立春を迎える喜びを味わいたかったのです。それほどに、昔の人々にとっての災いは、現代の科学の時代に生きる私達には想像もできないくらいに恐ろしいものだったのです。

 しかも、大自然の恐ろしさや人の心に宿る邪な思いは、実は、平素その美しさを誇っている同じ大自然やその優しさに満ち満ちた同じ人の心の中から発してくるのであって、正邪・美醜は決して別々のものではない、という厳しい真理をも先人たちは知り抜いてきました。そんな先人たちが、そうした事実は事実と承知する一方で、せめて人としてこうであってほしいといつも念じ続けてきた思いを行事化し祭礼化して、今日の節分が受け継がれてきたのだ、と思うと、先人たちにこの上ない親近感を感じ取ることができるのです。

 そして鬼もまたそうした人々の願いや思いを慮り、この日ばかりは「分かってますよ、家の外に出ていけばいいんでしょ」との役割分担に徹するがゆえに、こっそり逃げてもくれ、滑稽な仕草をも演じてくれるのです。 

 世の中は科学万能の現代に移行してしまっていますが、今なお昔の思いを伝える行事や祭事に家庭内においても触れることのできるこの国の素晴らしさと先人たちへの敬慕の思いを、今年も豆まきをしながら、改めて噛み締めてみたいものです。

(平成26年2月1日 記)