堀川今出川異聞(30)
いわき 雅哉
第五章 東国の系譜
◇ 千本釈迦堂の謎(1)
柾樹が焦がれ続けた萌との突然の別離は、柾樹から明るさと元気を奪い去った。すっかり生気をなくして落ち込んでいる柾樹を心配した喫茶店のママ姉妹が、うつろな目でコーヒーを飲んでいる柾樹に励ましの声をかけるが、柾樹は、じっとコーヒー茶碗の中を凝視しながら、一言も発しないままだ。
「ねえ、淡見さんて。お宅の気持はよう分かるけど、そないに落ち込んでたかて萌さんが戻ってきはるわけやなし、どこぞで区切りをつけて、しゃきっと立ち直らんと、ほんま身体、壊しおすえ」
「・・・・・・・・」
「いずれそのうちまた萌さんみたいなええ人も現れますやろから、ほんま、元気出してほしいわ、うちら」
「・・・・・・・・」
「かなんなあ、そないにフニャっとされてしもては」
ママは、困り切った表情で、奥の席の柾樹に聞こえないように声をひそめ、妹に語りかける。
「なあ、サっちゃんて、こんな時はどない言うたら、シャキっとしはるんかいなあ」
「そら、姉ちゃん、うちの経験から言うたら、男の人がこないなりはったら、まあ、終わりやねえ」
「終わりて、どないなるのん」
「まあ、廃人みたいになるっちゅうこっちゃね」
「それはえらいこっちゃないの。ほんまにそうやねんやったら、それこそ奥さんに連絡して迎えにきてもらわんといかんのと違う?」
「せやけど姉ちゃん、奥さんにどない言う気やの。まさかご主人が若い綺麗な人にぞっこん惚れてしまいはって、挙句の果てにその人に逃げられて、おかしゅうなりはりましたけど、て、言えるかあ」
「それもそやなあ。ただ、あの奥さん、いざとなったらこの店のカウンターの中ででも使うたって下さい、言うたはったさかいな」
「そら姉ちゃん、冗談に決まってるやないの。おかしなりはったさかい、うちの店で引き取らせてもらいますわ、てなこと言えますか、姉ちゃん」
「それもそうやねえ。ほんま、困ったこっちゃなあ」
「姉ちゃん、うち思うねんけどな。こういう時は、あんまり時間をかけんと、ちゃちゃっと正気に戻すことが大事や思うねん。せやからちょっときついけど、これまで夢見てたことがいかに現実離れしたことやったのか、そんなうまい話がそもそも淡見さんの身辺に起こってたはずがないやないの、何を夢遊病者みたいに自分に都合のええストーリーを追っかけまわしてんのん、ええ加減にしいや、と、パンパンと言うてきかせて、今みたいな夢うつつの状態から淡見さんを助け出さんといかんのとちゃうやろか」
「や、そんなきついこと、うち、よう言わんわ。サっちゃん、あんたやったら出来るよって、あんたに任すさかい、あんじょう頼むわ」
「また姉ちゃん言うたら逃げてからに。そやけどまあうちでないと無理やわなあ、こないなことは。分かった、任しといて姉ちゃん」
「頼むわ、サっちゃん」
そう言われた妹は、奥の席にいる柾樹の前までカウンターに沿って移動し、ま正面から柾樹を睨み据える様にして、早速口火を切った。
「淡見さんて。ちょっとうちの言うこと、聞いてんか」
「・・・・・・・」
「ちょっと淡見さんて、さっきから何にも言わんとじいっと固まっててどないすんの。うちも商売してんねん、そんな鬱陶しい雰囲気で店の奥に居座わられたら、えらい迷惑な話や。もうコーヒー飲み終わって、次の注文せえへんのやったら、お金、払うてさっさと帰ってくれませんか」
「ちょっとサっちゃん、そんな失礼なこと言うてどないすんのん。さっきの話とはえらい中身が違うやないの。さっきのストーリーみたいな話を、もっと穏やかにでけへんのん?」
「そやった、そやった、ごめん、ごめん。淡見さんの顔見てたら、ちょっとイラっとしてしもて、つい、つい本音を言うてしもたわ。よっしゃ、ほんならもう一回やり直すわな」
「頼むで、サっちゃん」
姉妹のそんな会話も何一つ耳に入っていないようなうつろな表情で、柾樹はうつむいたまま、下に置いたコーヒーカップを見つめている。
「淡見さんねえ、お宅の気持は分からんでもないえ、うちら。そら、萌さんちゅう、えらい別嬪さんとお付き合いしてて毎日が夢のように過ぎてたのに、突然、目の前から萌さんが消えてなくなってしもたんやもんね。それも初めてこの店に連れてきてくれはって、話がはずんだと思てたのに、突然おらんようになりはったんやさかい、余計にショックが大きいのは無理もないこっちゃ」
「萌」と言う名が妹の口から出た瞬間にだけ、柾樹の目は妹の方に向けられたが、其のあとはまた変わらぬ表情に戻る。
「あのねえ、淡見さんて。あの萌さんとの楽しかった日々はねえ、実は、みんな夢やったんよ、そう、夢。大体考えても見てよ、言うて悪いけど、格別男前でもない淡見さんに、あんな素晴らしい恋人ができるはずないやないですか。あれは何かの間違いか勘違い。現に、あの萌さんて、この世の人ではなかったわけでしょ。言うてみたら、淡見さんをたぶらかすために、ドロドローっとこの世に出てきた化け物ですやん」
妹がそこまで言った時、それまでうつろな目つきで生気を欠いていた柾樹が、いきなり声を荒げて言った。
「サっちゃん、それは違う。萌さんはそんな俗っぽい人間ではない。みんなは信じないかも知らんが、彼女と僕とは明日のこの国のためを思う気持ちを確認し合ってきた同志なんだ。たぶらかす目的をもった化け物と、その化け物に騙される人間といったような安っぽい関係ではないんだよ。第一、萌さんに失礼じゃないか」
そう言い終えるや、柾樹は席を立ち、姉の前にコーヒー代を荒々しく置くと、そのままドアを押しあけて出て行った。残された姉妹は、なすすべもなくその後ろ姿を見送ったまま、顔を見合わせて深い溜息をつき、妹は、姉に「降参や」といった身ぶりをしながら言い放った。
「姉ちゃん、淡見さん、もうあっちへ行ってしもたはるわ。病院に連れていくほかない。うちら素人では埒があかんえ」
姉も「そうやな」と同調するように頷いた瞬間だった。今しがた出て行った柾樹とまるで入れ換わるかのようなタイミングで、突然喫茶店のドアが開き、逆光で確認しにくい中を一人のお客が静かに店内に入ってきた。
姉妹は慌てて入口に向かって「いらっしゃいませ」と声をかける。やがて店の灯りに照らし出されて確認できたその来客の風貌に、姉妹は思わず顔を見合わせた。それは、周囲の雰囲気を一変させるほどに気品ある美しさに満ち溢れた若い女性で、どこか萌を思わせる美貌の持ち主だったからだ。ママは、カウンターの中央辺りの席を勧めながら、ぎこちなくメニューを広げて差し出すと、おずおずしながら注文を聞いた。
( 次号に続く )