堀川今出川異聞(28)
いわき 雅哉
第四章 洛西慕情
◇ 再びの喫茶店(4)
不安な面持ちで思わず萌の手を握りしめた柾樹に向かって、萌は、にっこりとほほ笑みながら軽くその手を握り返した。萌の手のぬくもりと柔らかさが柾樹の手にもろに伝わってくる。しばらくの間をおいて、萌は、正面で腕組みしながら怖い形相で萌を睨みつけているママとその妹にきちんと向き合うように姿勢を正して、静かに口火を切った。
「ご懸念はごもっともなことと萌も思います。たしかにこの世には、既にこの世に身を置いていないにも関わらず人の姿を装って、さまざまな邪悪な行いを企む霊魂が存在いたします。が、その一方で、今、現実にこの世に生きているさまざまな命に対して、ある強い思いを必死になって届けようとする霊魂も存在しております。萌は、後者の使命を担って、この姿・形でこの世に現れてきているのです」
「やっぱりそうや。この世のものではないことは認めはったんやね。そんなら、あんたが届けたいと思たはるその強い思いちゅうのは何ですのん。そこがポイントでしょ」
「その通りですね。その強い思いと言うのは、萌だけが抱いているものではなく、萌もその一員となっている大勢の先人の霊魂がひとしく有している思いなんです」
「せやから、なんですのん」
「それは、今、この国のこの時代に実際に生を受けて、日々を一生懸命に生きておられる方々に、かつてこの国の歴史を作り出し、今日のこの国の繁栄やありよう、さらには深い文化や高い感性の礎を築きあげてきた先人たちの懸命で真剣で一途であった生き方に対して、どうかまじめで真摯で敬虔に向き合ってあってほしい、という思いなんです」
「そんなん分かってますがな」
「いいえ、分かってはおられません。皆様が分かっておられるのは、年代史的・年表史的な上辺の知識だけであり、かつ歴史の勝者の系譜中心の結果論で編まれた連鎖知識だけです。歴史はそんな表層的な知識や思いで捉えられるべきではなく、もっと重層的・重畳的で情念的・思索的な人間性に立脚したものとして理解されなければ、先人の知恵も魅力も、またその価値の大きさも豊かささえも感じとることはできないのです」
「そんな難しいこと言わはっても、うちらには無理やわ」
「とんでもありません。これは知識や学問の話ではございません。平たく言えば、その時代時代に生きてきた先人たちの判断力や思索力に素直に感心したり、一方で、心ならずも敗者となった人々の無念さ・残念さに思いを馳せたり、表現文化としての日本の芸術の圧倒的な卓越性に心底感動したり、今の自分と引き比べて先人たちの思想の大きさや志操の高潔さに感服したり憧れたりする素直な人間の思い、自然な憧憬の念を申し上げているのです」
「・・・・・・・・」
「そして大切なことは、そういう歴史認識の方が、今の人々の習性となっている知識優先で事象を理解することよりもずっと簡単で易しく、自然で当を得ていると言うことなのです」
「どういうことですんや、それは? なんでそっちのほうが簡単ですねん」
「人が生まれながらに持っている感性という伝家の宝刀で、ものごとを感じとるからです。赤ん坊や幼児の理解の仕方に近いといえば、より分かりやすのではないでしょうか。大人になると『一寸法師』などは、はなから存在し得ない、という思いで、ただの作り話と受取ってしまいます。でも子供のころは本当に一寸法師は存在しているかのように思い込んで、目を輝かせて親が読んで聞かせてくれる話に聞き入ったものです。そうであったからこそ、想像力は膨らみ、まるで目の前にお椀の舟に箸の櫂を持った一寸法師の世界が展開されましたよね。どうか長じてもそれと同じ感覚で歴史に触れてみるという姿勢を大事にしていただけないものか、そうでないと先人の感性と心意気を今日まで脈々と受け継いできたこの国の文化は崩壊し、単に過去の遺物だけがあちこちに点在しているだけで、祖国に対する強い愛情も誇りも魂も消えうせた住民だけがうつろな目で日々の暮らしに喘いでいるだけの国になり下がってしまいますよ、そうならないためにも、この国の魅力と真価に強く感動する人達を一人でも多く見つけ出して、私たちのこの思いを共有していただきたい、と願って、今、この世に降りてきているのです」
「まあ、降りて来はるのはそちらさんの勝手ですけど、その話がなんで淡見さんとのお付き合いにつながりますねん」
「皆さんはお気づきになりませんか。鍛心庵様は、すでに会社勤めを定年でおやめになっておられるのに、どこか子供のままみたいな素直さや少し大げさなくらいにやたら感動・感激される性格をお持ちです」
「それは言えますわ、まあはっきり言うて、ちょっと変わったはるちゅうか。あ、ごめん、淡見さん」
いきなり自分の名前が出されたことで、淡見は驚いて萌の手を放そうとした。が、萌は一層強く柾樹の手を握り締めた。柾樹の視線は、匂うように美しいが清楚で気品に溢れるがゆえに決して派手な印象を感じさせない萌の横顔に釘付けとなった。萌は話を続ける。
「皆さんも鍛心庵様をそのように思われていると知って萌は嬉しく思います。ただ、鍛心庵様が『ちょっと変わっておられる』のではなく、私たちからすれば、よくぞその気持ちを今日に至るまで失わずに保持してきて下さった、との思いから、この萌は鍛心庵様に接近させていただいたのです」
「意図的に近づきはったんですか」
「はい、強い意図をもって」
「誰かに言われはったんですか」
「はい、誰かに言われて」
「誰ですのん、それは」
「それはさすがにこの場では申し上げられませんが、さきほどからお話しておりますように、過去の歴史に身を置いてきた私どもが、冒頭に申し上げたような経緯から、本当にこの国の先人たちの思いを心底理解してくれる現世の人を探しておりましたところ、たまたま鍛心庵様を知ることとなったのです」
「どこで、淡見さんのそういう性格に気づきはったんです?」
「最初は先の初夏の葵祭で、そしてそのあとは秋の時代祭で」
「そうそう葵祭は、この店で淡見さんと淡見さんの奥さんが、モーニングを済ませはってから見に行きはりましたなあ、よう覚えてますわ。そのあと夏をまたいで時代祭に行きはった頃は、淡見さんがちょっと元気をなくしたはった頃でしたけど、祭を見に行かれてからは何か元気と言うか、ちょっと今までとは違う深みを、うちらは淡見さんに感じるようになりました。なあ、さっちゃん」と、ママは妹に同調を求める。
萌に対してあんなに敵対心を燃やして腕組みし、仁王立ちしていたママとその妹が、完全に萌の話に引きずり込まれて、身を乗り出してきている。萌は、そんな二人に優しく微笑みかけ、そっと柾樹にも美しい一瞥を送りながら、話を続けた。
「葵祭の牛車を曳く牛を見て涙を流した人は鍛心庵様が初めてでした。また、時代祭を見た後に、その主役達を乗せて行進・闊歩していた馬の足取りをまねて家路を急いでおられた鍛心庵様のような方も初めてでした」
柾樹は、赤面した。妻からいつも馬鹿にされている柾樹の幼稚さがはっきりと指摘されたからだ。
「でも、その幼なさ、純粋さ、感動の高まりの尋常ならざるところをこそ、私たちは見逃しませんでした」
「ほんで」
「直ちに鍛心庵様のあとをつけるように、萌は、命じられました」
「そのお、さっきその人の名前は言えまへん、て言うたはったお方からの命令で?」
「そのとおりです」
「ほんで、萌さんの方からいきなり淡見さんに声をかけはったんですか」
「は、はい・・・」― そこまで歯切れよくこれまでの経緯を語ってきた萌の様子が、ここで急におかしくなった。
柾樹も、ママとその妹も、それまでとは急に雰囲気が変わった萌の様子に、驚いて萌の顔を覗きこむ。
「萌さん、どうなさったんですか」柾樹は、つないでいる萌の手を強く少し振るようにして萌に話しかける。
しばらく沈黙していた萌がやがて口を開く。
「実は、萌は、この時に大きな過ちをおかしてしまうこととなります」
「大きな過ち? なんですのん、それは」― ママが驚いたような声を上げる。
その瞬間、いままで冷静で穏やかだった萌の美しい瞳から清らかな大粒の涙があふれ出し、それが萌の美しい頬を伝って、萌の手をにぎりしめている柾樹の掌の上に、ぽとりとこぼれ落ちた。
( 次号に続く )