堀川今出川異聞(25)

いわき 雅哉

満開の枝垂れ桜の名を告げる1本の立て札  撮影 三和正明

満開の枝垂れ桜の名を告げる1本の立て札  撮影 三和正明

第四章 洛西慕情
◇ 再びの喫茶店(1)

 目の前に咲く季節外れの満開の枝垂れ桜の見事さと、それが柾樹の正解に寄せてわざわざ萌が咲かせてくれたものだという事実が、柾樹には感動的だった。そんな余韻に浸りながら、萌から離れて更に桜の木に近付いてみる。と、満開の枝垂れにほっこりと包まれるようにして立てられている立て札が目に入った。そこには墨痕鮮やかに「阿亀桜(おかめざくら)」と書かれてある。「どういう意味なんだろう」―――そう思って柾樹は、振り返って萌に聞こうとした。

 が、萌は先ほどまで居た場所には見当たらない。おやっ、と思って当たりを探すと、いつの間にか萌は、柾樹の遥か後ろを通って奥にある本堂の方へと進み、そこで一人の年長の女性とにこやかに話をしている。

 柾樹が萌の様子に気づいたのを知って、萌は柾樹に声をかけた。
「鍛心庵さま。そろそろお目当ての喫茶店に行く時間ではありませんか。本当は、ここ千本釈迦堂の興味深い創建当時のお話や鎌倉時代以来の由緒ある本堂に上がって、そこからこの桜を見下ろす風情なども味わってみたいのですが、喫茶店に行くと言う約束をたがえるわけにもいきませんので」

 柾樹は、季節外れの満開の桜をわざわざ咲かせて見せてくれた萌の気持が嬉しくて、喫茶店のママに萌を引き会わせると言う、もともと自分の方から言い出した話など、すっかり忘れてしまっていた。

「おっと、そうでしたね。この枝垂れ桜の見事さで頭がいっぱいになり、肝心なことを忘れてしまっていました」

 そんな柾樹の表情を見ながら、萌は微笑み、その横で萌と話をしていた年長の女性も柾樹に向かって、にっこりと笑みを浮かべながら、軽く会釈した。

「あのう、そちらのご婦人は?」

「そうそうご紹介するのを忘れていました。こちらは、この千本釈迦堂の歴史を語る上で忘れてはならない大切なお方です。今日は、ゆっくりとお話をお伺いする時間がありませんが、今度、鍛心庵様がこちらにお見えになった時にはご案内をよろしくお願いします、と、今しがたお頼みしていたところです」

 萌がそう言い終えると、その女性は愛相のよい笑顔を柾樹に向け、清々しい声で言った。
「鍛心庵様、ここのお寺の本堂創建に深くかかわった棟梁の内儀で、おかめと申します。萌さんから、鍛心庵様が今度こちらにお見えになった時には、このお寺の縁起や開祖のご紹介などをぜひよろしくと頼まれておりましたので、お待ちしていたところです。でも、今日は急にこのあと寄らねばならないところができたそうで、又の機会に、と今、萌様とお話していたところでした。これを機に、どうぞお見知りおき下さいませ」

「そうだったんですか。それは申し訳ありません」
柾樹は、そう返答しつつ、今しがた萌もこの人も、その名前を「おかめ」と言ったが、その名前ってどこかで聞いたことがある、一体どこで聞いたんだっけ、と必死に記憶を紡いでみた。

 そうだ、目の前のこの桜につけられていた名前だ。そう思い当たった柾樹は、すかさず「あのう、おかめさんと言うお名前は、この大きな枝垂れ桜の立て札に書かれた阿亀桜からとられたんですか」と聞いた。

 萌はこの柾樹の言葉に吹き出した。
「いやですよ、鍛心庵さまったら、逆じゃないですか。この方がおかめさんだからそれにゆかりの名をその桜につけたんじゃありませんか・・・」

「えっ、あゝそうか、そりゃそうですよね、このお寺をお建てになった棟梁のおかみさんの方が、この桜よりもずっと昔の方でしょうから、話は逆なんだ」
 柾樹は、自嘲気味にそう言いながら、照れ隠しに頭をかいた。と同時に、その「おかめ」と言う名の女性の顔立ちやちょっとした仕草の中に、どこか小粋できっぷのよさそうな得も言われぬ庶民性と、それとは異質の高い聡明さと品の良さが同居しているように感じられ、柾樹は一目でおかめにも好意を抱くことができた。

 その間、萌もまたにこやかな表情で、おかめという女性に寄り添い、柾樹の方を見ていたが、時間が気になったようで、
「では、おかめさん、近々ご連絡を入れさせていただきますので、今日のところはとりあえず鍛心庵様のご紹介までにとどめさせていただきますね」と言う。

「あい、承知しましたよ、萌さん。それに今日は今から喫茶店での面通しなんでしょ。精一杯、頑張らなきゃね」

「あら、おかめさんたら、面通しだなんて・・・。萌も多少は興味があるので楽しくお目にかかってこようと思って・・・」

「さてさて、どんな仕儀になることやら、また後日談を聞かせて下さいな」

「冷やかさないで下さいよ、おかめさん」

 二人の女性の軽快な会話に、柾樹はどこか自分が置き去りにされているように思えて、少し拗ねてみたい気になったが、早く約束の喫茶店に萌を連れて行かねば、との思いの方が強く、いささか焦り出していた。

 萌とおかめはそんな柾樹の胸中を見透かしてか「それじゃ、またね」と言い、おかめは柾樹に向かって「では、鍛心庵様、またのご連絡をお待ち申し上げておりますので、私はこちらで失礼いたしますね」と言って、本堂の方へと足早に遠ざかっていった。その機敏で隙のない動きには、棟梁の抱える多くの職人たちの面倒を見てきた女将が発する独特の色気と貫禄が漂っていて、しばし柾樹はその後ろ姿に見とれていたが、いきなり萌に袖口をギュッと引っぱられて、我に返る始末だった。

 ようやく萌と二人きりになって千本釈迦堂から今出川通に出て歩く道すがら、柾樹は、またまたこの棟梁夫人のことをしつこく萌に聞いた。

「おかめさんって方は、この本堂をお建てになった棟梁のおかみさんだっておっしゃっていましたね」

「そうですよ。そりゃあスカっとした気っ風の持ち主で、いつお話しても気持がシャンとします。萌の大好きな方のお一人ですのよ」

「そうですか。いや、僕も初めてお目にかかったのですが、なかなか男勝りと言うか、ああでないと多くの職人を養ってはいけませんものね。だからどこかキリッとしてらっしゃる。が、同時にどこか気高さと言うか、本性は別にあるような高潔さが漂よっておられました。どうも只者ではないですね」

「あら、鍛心庵様ったら、おかめさんに一目ぼれですか」

「とんでもない、ただ率直に感想を言っただけですよ」

「いやいや、ああいうタイプがお好みなんだわ、鍛心庵様は」

「やめて下さいよ、萌さん」と否定しつつも「で、あの方が次回は千本釈迦堂を案内して下さるんですか」と、柾樹はその人の話題からはずれようとしない。

「その通りです。あのお寺は鎌倉時代に創建された古刹ですので、萌ごときにそのご案内はゼッタイに無理ですから」

 萌のその言い方が、心なしかつっけんどんに感じられたこともあり、柾樹は慌てて萌に懇願するように言った。

「案内して下さるのはあのお方であっても、当然、萌さんは一緒についてきて下さるんですよね」

「さあ、それはどうでしょうかしら。鍛心庵さまが、このお寺の鎌倉時代の創建当時のお話をお聞きになろうとされるのであれば、萌は却って邪魔になりますでしょ。」

 おっと萌は怒っている、まずい。少しおかめさんのことに話題を振りすぎた、と柾樹は反省して言った。
「邪魔だなんて、とんでもない。それに、こう見えても僕は人見知りをするほうなんで、萌さんがそばにいてくれないと不安なんです」

「あら、鍛心庵様が人見知りをなさる、ですって? まあまあ鍛心庵様はお口がお上手で、困った方ですね。でもね、真面目な話、あのおかみさんに案内していただいてここの創建当時の由来や縁起をお聞きになると、きっと驚かれると思いますよ。ぜひお話をお聞きになって、鍛心庵様も少しはシャキっとされてはいかがですか」

 萌はそういうとちょっと怒ったような顔をして、きびきびと歩き始めた。そういう区切りの付け方もまた柾樹の好きな萌の一面でもあったが、それよりもやっと二人きりになれたのに、相変わらずおかめさんの話題を続けている自分の気の利かなさを柾樹は痛切に反省し、まるで母親の後ろを追いかけるようについていく子供にも似て、萌との差を詰めた。

 すぐに萌に追いついた柾樹は、必死になって言う。
「あの方のことが少し気になったのは、今日、初めて萌さんに紹介してもらったばかりなのに、まるで以前から僕のことを知っておられるような雰囲気だったのが少し引っかかったからなんです。萌さんが事前に何か僕のことを話しておられたんじゃないか、と思ってね」

「というよりも、鍛心庵さまがご関心をお持ちになる場所に縁のある人々は、皆、鍛心庵さまのことをよく存じ上げております。強い関心を持ってその場所の由来や先人の思いを回顧し、その背景にあるものを理解しようとして下さる方に対しては、時を越えて心を通わせたいと思っておりますゆえ」・・・萌の表情はまだ硬いが、その少し冷たく感じさせる横顔がまた柾樹の気持ちを揺さぶる。

「では、萌さんも?」と柾樹は萌に話しかけながらも、心のうちでは「いえ、私はそんな由来からではなく、素直に鍛心庵様が好きだからです」と答えてほしかったが、その独りよがりの柾樹の胸の内を見透かしたかのように、萌は、ほんの少し笑みを浮かべただけで、何も答えなかった。

 代わりに萌は、
「今度おかめさんに逢われれば、あのお方は、鍛心庵さまが感じておられる以上に、凄い方だということがお分かりになりましょう。やはり鎌倉時代の大寺院を建立された棟梁のお内儀ともなれば、それくらいの気風の持ち主でなければ、と、きっと深く感じられることと思いますよ」

「そんな怖い人?」

「いえ、怖いどころか心底優しい人」

 これだけの会話では一体このおかめさんと言う女性が、このお寺の創建にどうかかわったのか到底理解できないが、少なくとも萌がそこまで評価している人であれば、会う価値のある人だということは間違いなさそうだ。事実、先刻、萌が見事に花を咲かせてくれた枝垂れ桜に、わざわざ「おかめ桜」と命名されていたことからも、このおかめと言う人は、柾樹が想像する以上に、この古刹の建立という大事業に深くかかわった人らしい。が、大工でもないこの女性が一体どんな形で寺院造営の大仕事に関わったと言うのだろうか。そう思うと、萌が一緒に付いてきてくれるか否かよりも、そういう人物を萌が紹介してくれたことにまずは感謝しなければなるまい、との思いが胸をよぎり、いい歳になっているのに何ごとも萌大好きだけで判断している自分の幼稚さを柾樹は恥じた。

 そして実際に、柾樹がその後再び千本釈迦堂を訪れ、おかめさんからこの寺院の創建時の不思議な秘話や悲話を聞かされたり、開祖義空上人との面談の機会を創出してもらうことで知り得たこの地域一帯の驚愕の因縁の系譜に、柾樹の果てしなき好奇心が激しく燃え盛っていくことになろうとは、この時、柾樹自身、知る由もなかったのである。

 二人は、時おり肩と肩とを触れ合わせながら今出川通を並んで歩いた。と、時ならぬ通り雨が二人を濡らす。萌はどこにそんなものを持っていたのか、小さな蛇の目を開いてそっと柾樹にさしかける。その蛇の目傘の中で二人は肩を寄せ合って雨を避けるが、萌が指しかけてくれる傘の骨の先が、時々コンコンと柾樹の頭に当たった。少し痛いと柾樹は思ったが、萌から離れたくない一心で、じっと我慢する。が、小さな段差を萌が踏み外しそうになった時の骨の当たり具合に、柾樹が思わず「痛い」と声に出したことで、萌は事態に気がつき、あらまあごめんなさい、と言いながら、必死に笑いを押し隠す。柾樹もおかしくて思わず笑い声をあげてしまう。

 いつの間にか雨がやみ、ほんのしばしの嬉しい痛みを伴った二人の最接近の時間も終わりを告げる。いつまでも雨が降ってくれていたらいいのに、と柾樹は思いながら、萌に気づかれないように、傘の骨の集中攻撃を浴びた箇所をそっとさすってみる。こうして二人は、いつの間にか堀川今出川の交差点に到着し、そこを南に少し下がれば、お目当ての喫茶店「もとはし」に辿り着くというところにまで歩いてきていた。

「もう間もなくです」柾樹は、萌に伝える。

「あらいやだわ、何だか緊張します。ママさんってどんな方?」

 萌といえども緊張しているのだろうか、先ほどのご機嫌斜めが解消し、ちょっと心細そうな表情をしている。おかめさんを紹介してくれた萌に、今度は柾樹が喫茶店のママとその妹を紹介する番なのだが、それにしても、あの姉妹、余計なことを言わないだろうな、僕の品性を疑われるようなことだけは慎んでほしいのだが、案外平気で冷やかしたりするかもしれないしな、と、柾樹は柾樹で緊張感を覚えだしていた。

 が、あっという間に、喫茶店の前に到着だ。柾樹は少し中に入るのにためらいを覚えつつも、思い切ってドアを開けた。瞬間、カウンターの中のママと妹の目が入口に立っている柾樹と萌に注がれた。

「あら、淡見さん、どないしはったん、そんなとこに突っ立って。そちらお連れさん?」

 柾樹は固い表情で頷いたが、先ほどまで少し緊張していた萌の方は、こぼれるような笑顔で店の中の二人に軽く頭を下げた。

( 次号に続く )