第30回 二・八 考
つい先日、お正月を迎えたばかりだと思ったのに、今日からはもう2月。月日の経つ早さにはいつも驚かされますが、なかでも、1月から2月への移り変わりの早さは、1年の中でも格別なように思えます。単なる三連休とは趣の異なるお正月固有の三ケ日のお休みや、お屠蘇気分の抜けきらない仕事はじめのスロースタートな雰囲気のせいで、実際の日数以上に月末までが短く感じられるせいかもしれません。
が、仮にそうだとすれば、1月ののんびりした雰囲気からの遅れを取り戻す意味でも、又、1カ月の日数が他の月に比べて少なくあっという間に3月になってしまうことからも、2月に入れば、人々はシャカリキになって仕事に精を出し、決算期本番の3月に入ってから慌てることのないよう、必死で頑張らねばいけないはずですよね。
ところが、昔から人々は2月になるやエンジンの出力を上げるどころか、厳寒の最中、所詮はお客も来ず今月は開店休業の月だ、といわんばかりに、のんびりムードに浸って、1カ月を終えてしまいます。
同じように、夏真っ盛りの8月も、猛暑で人の活動が鈍る中、こちら一人が懸命に頑張ったところで商売が盛り上がるわけでもないと、のんびりムードに拍車をかける月となります。8月も翌月が多くの企業にとって大事な中間決算期であり、そこでの駆け込みの忙しさは目に見ているにもかかわらず、です。
ともすれば、世界有数の勤勉民族と言われる国民性を有するこの国の人々は、年柄年中働きづめで息抜く暇もないくらいに頑張ってきたように思われがちですが、実は、先人たちは決してそんな無茶な働き方をして徒に体力を消耗したり、余暇や風流を楽しむことまで忘れてしまったかのような生き方をしてきたわけではなかったのです。
そうした知恵を示す言葉が「二八(ニッパチ)」という表現でした。広辞苑で「にっぱち」と引くと、【二八】「2月と8月。商取引の振るわない時期とされる」と書かれています。ある意味で大自然の摂理をわきまえて生きてきた昔の人々は、心身の健康を維持する上でも、根を詰めて働くことを控えるべき時期には、それ相応のゆったりとした息抜きをすることで、その後に間違いなく多忙を極めることとなる時期のために体力を温存し、さあ、ここ一番、という時には一気にギアをトップに入れるという生き方・働き方を身につけてきたのです。トップギアにシフトさせるための直前2ケ月、つまりお正月とその翌月の2月、夏休み入りする7月とその翌月の8月という都合4ケ月間は、1年の中で平素の馬力の半分以下の出力で経済生産活動を流し、残りの8ケ月に1年の勝負を賭けてきたのです。
確かに、「二八(にっぱち)」という言葉は、商売の世界で使われる用語ですが、実は、そこには、お米作りの季節感に符合したタイムスケジュールで緩急をつけてきた生活の知恵が反映されてきた背景があったように思えてなりません。この時しかないと言うタイミングでは強烈に頑張り、あとは大自然の営みと律動に身を預ける。逆に、そうした割り切りが根底にあるからこそ、不測の事態や肩すかしに対する不思議なほどの諦めの良さが出てくるのかもしれないですね。
と同時に面白いな、と思えるのは、1年のうちのいずれか2つの月を口にした時に、私たちは、2月と8月についてのみは、それぞれの月を「スポット」として認識し、決して2月から8月までの「期間」として捉えることがないのに対して、2月・8月以外の2つの月の羅列については、全てその2つの月に「またがる期間」として意識すると言う点です。
例えば、1月と3月を1・3と言った場合、誰一人としてその2つの月を2・8のように同じ性格をもつ2つの月の羅列とは捉えず、1月から3月までの期間として理解します。10・12も4・9も1・6も、また仮に全く適当な月の羅列である5・7といった組み合せでも、それら2つの月の羅列は全て「期間」を意味する表現として認識され、決して2・8のように、単独に併存する2つの月として捉えるという習慣はありません。
たしかに二八(にっぱち)という言葉があるから2・8の2つの月の羅列を期間として認識はしないだけさ、と言われればそうなのですが、実は、ここにこそ、勤勉この上ない国民性の持ち主である私たち日本人の本性が現れているのです。
つまり、その根底に流れている思想とは、2と8だけが勤勉の埒外にあることを許される月であって、それ以外の月の羅列は全て2つの月にまたがる期間を表し、その期間に求められる厳しい労働や商売に専念しなければ豊かな生活は保障されないという厳しい労働観が流れていたのだ、ということではなかったでしょうか。そしてそうだからこそ、2月と8月とは神様が与えて下さった休養の月であり、その前月もおおっぴらには言わないまでも「ゆっくりしなさい」と神様がほほ笑んで下さっている至福の月として、心身を休めることに無類の感謝の思いを抱いてきたのではなかったでしょうか。
にもかかわらず、日本人は働き過ぎだ、朝から晩まで働きづめで何の楽しみがあるのか、といった上辺だけの考え方や批判が年々支配的になり、本来、私たち日本人は何故勤勉であらねばならないのか、といった根源的な意味を学ぶ機会もないままに、大切な時間を浪費することをむしろ美徳とするかのような風潮が蔓延しつつあります。そもそも先人たちは、過去、決して馬車馬のように働いてきたわけではなく、働くべきタイミングには全力で働き、息抜きをすべき時には大いに羽を伸ばすことによって、有限の価値を持つ時間というものに最大限の意味を持たせてきたのです。
そして、その緩急自在の1年の過ごし方の中から、世界に冠たる深みのある日本文化が生まれてきたのです。世界の一体どこに、千年以上も昔の人々の感性が今なお脈々と継承され、近代国家となって以降も千年以上も昔の詩歌が人口に膾炙している文化国家があるでしょうか。世界の一体どこに、煌々と輝く冬の月の光の下で、春の気配を秘かに告げる小梅の一輪ごとの開花に心なごませる民族がいるでしょうか。
なんでも欧米化することが最高の生き方であるかのような昨今の風潮の下、日本人のもつ生活感覚が大自然の摂理に裏付けされた敬虔な精神性に依拠したものだ、と言う尊い背景を理解せず、徒らに自己卑下ばかりを繰り返していては、せっかくの長い歴史の歩みの中で築きあげてきた民族の得難い知恵もついには継承されなくなって、この国の活力は萎えてしまうことともなりかねません。今年の2月は閏月、4年に一度の1日長い分だけ、一層、先人の知恵に思いを馳せてみたいものです。
( 平成28年2月1日 記 )