堀川今出川異聞(23)
いわき 雅哉
第四章 洛西慕情
◇ 山名家残照(2)
柾樹が、萌に申し出た条件とは、他でもない、いつ、どんなタイミングで萌に切りだそうかとかねがね思案していた懸案の事柄を、今日、この機会に思い切って申し出て、萌の了解を取り付けることだった。
仮に、萌から出されている質問に対する柾樹の回答が萌の期待を裏切るような内容であれば、所詮、この先、萌に会う機会は永遠に掻き消されるだろう。が、逆に、萌からの質問に柾樹が見事に正解した暁には、その懸案の申し出事項を萌に伝えて承諾させる願ってもないチャンスになる。そう柾樹が考えたからだ。
柾樹は、その腹を固めて、萌にこう言った
「萌さん、もし僕の回答が萌さんの期待通りのものだったら、僕から萌さんに何としても聞き届けてほしいお願い事があるんです。それが僕のいう条件です」
「あら、鍛心庵さまは、一体何をこの萌に要求されるのでしょう。難しいこと、それとも簡単なこと?」
萌は、軽くいなすような雰囲気で、柾樹の問いかけに答えた。
柾樹は言う。
「簡単なことです」
「おや、簡単なことなんですの。それならわざわざこんな時におっしゃらなくとも、いつだって萌はお受けいたしますものを」
「いえ、簡単なことではあっても、萌さんからは、言下に嫌ですと言われてしまいそうなことだからです」
「まあ、簡単なことなのに、萌が言下にお断りしそうな内容が、鍛心庵さまのお求めになられる条件なんですって? はて、一体、どういうことでしょうか、萌には想像もつきませんわ。で、もし、おっしゃるように萌が言下に嫌です、とお答えしたら、一体どういうことになるんですの?」
「そうなると、僕は、ある人との約束を違えることになります」
「あら、萌の答え方一つで、あるお方とのお約束を反古にしてしまうことになるんですの」
「そのとおりです」
「だったら、相当に難しいご注文だということじゃないんですか」
「いや、全然」
「萌にはわかりませんわ、おっしゃっている意味が。極々簡単なことなのに、萌がお断りする可能性が十分にあるようなことなんて、萌には見当もつきません」
「だったら、申し上げましょう。それは、萌さんが普通のお人じゃないからです。普通のお人ならそんなに難しくもなければ、僕自身が意を決してこんな時にそんな話を条件として持ち出すなんてこともあり得ませんもの」
「萌が普通の人じゃないって? どこが?」
「萌さん、僕は気が付いているんです」
「何に?」
「それを僕に言わせるんですか。萌さんは・・・」
「分かりませんわ、萌には鍛心庵さまのおっしゃっていることが」
「なら、はっきり言います。萌さんはこの世の人ではない、ということです」
この柾樹の言葉で、萌の表情は一気に掻き曇った。そして、萌の美しい瞳からあっと言う間に大粒の涙が零れ落ちた。柾樹は、その原因となった言葉を自ら発しておきながら、萌のこの急変に狼狽し、必死になってこの状況を変えようと、声のトーンを張り上げて、萌に言った。
「萌さん、ごめんなさい。この世の人ではない、と言う言い方がお気に障ったのなら、言い直します。萌さんは僕とは同時代に生きている人じゃないんだ。だからこそ、その奥ゆかしさや厳しい心の持ち方、まっすぐな生き方に僕は惹かれてどうしようもなくなった。いい加減な生き方を許さない怖さがある一方で、優しさや麗しさに満ち満ちている萌さんの魅力は、歴史上で学んできた素晴らしい先人たちと同じように、人々を救う力に満ち溢れている。そんな萌さんに出会えたことが僕は嬉しくて、楽しくて・・・・。でも、萌さんはどこか普通の人とは違う。だって、僕は現世の人間であり、萌さんは・・・」
その先を言おうとした柾樹の唇に、萌は不意にその美しい人差し指をあてがい、それ以上は言わせませんよ、という凛とした目で、柾樹が次に発しようとしていた言葉を遮った。目にはまだ大粒の涙が光っている。しばし静寂のひとときが流れてから、萌が静かに口火を切った。
「鍛心庵さま。鍛心庵さまがおっしゃる『同時代を生きている』とは、どういう意味なのでしょうか。鍛心庵さまは、今、現に、目の前で生きものとしての命が保たれ、実際に目の前で動き回り、その時代の言葉や考え方を身につけている者だけが、同時代を生きている人間であって、そう言う人としか共に今を生きることはできないのだ、とお思いなのでしょうか」
「・・・・・」
「人の想いなどと言うものはいつの時代でも時空を超越して浮遊し、交流しあうものです。鍛心庵さまが弘法大師さまや親鸞聖人さまを慕われる時、お二人のお上人様は鍛心庵さまのお心の中で実際に鍛心庵さまとお話をされ、共感され、大いにお笑いになっておられるではありませんか。鍛心庵さまが尊氏公や山名様に関心を持たれ、その人生に触れたいと思われた時には、尊氏公や山名様が鍛心庵さまに直接話しかけてこられるではありませんか」
「・・・・・・」
「同時代を生きると言うこと、今を共に生きると言うことは、そういうことではないんでしょうか」
柾樹は、萌の尋常ならざる気迫と、涙がツツーと流れおちたあとの萌の何とも清々しくて美しい表情の虜になり、心地良い敗北感のようなものを全身に感じとっていた。
「あら、ごめんなさい、鍛心庵さま。萌が一体どうしたことでしょう。つい上気して一人でおしゃべりしてしまって、ほんとに恥ずかしい・・・」
「逆です、萌さん。今を共に生きると言う意味を浅はかな感覚で捉えてしまっていた僕の方が恥ずかしいことでした。そのくせ一方では、萌さんのことをどうしようもなく好きになっていく自分が不安で、勝手に、萌さんとは同時代人じゃないから、などと区別して、自分の感情をごまかしていた僕は、なんて了見の狭い男なんでしょう。恥じるべきは僕の方です」
「鍛心庵さま、萌はそんな鍛心庵さまをこそ素敵だと思っているのです。さ、今、萌が長々とお話したことなど、全てお忘れ下さって、鍛心庵さまの言われる条件とやらをお聞かせ下さいまし。さ、鍛心庵さま、どうぞ遠慮なくおっしゃって下さいまし」
そう言いながら、萌は、懐紙のようなものを取り出して、そっと自分の眼がしらを拭った。
「有難うございます。でも、今となっては僕のいう条件など、ちょっと次元が低過ぎて、萌さんには呆れられるだけですから、もういいです」
「いいんです、おっしゃってください。鍛心庵様が萌の思いに沿った駒札の解釈をして下さりさえすれば、萌は喜んでその条件とやらに応じさせていただいた上で、なぜ萌がたった一本の駒札に書かれた文章の解釈にかくもこだわるのか、についてもきちんとご説明をさせていただきます。だから鍛心庵さま、どうぞおっしゃってくださいまし」
「素敵な萌さんにそこまでおっしゃっていただき、僕は男冥利に尽きます。では、お言葉に甘えて、恥ずかしさを押し隠し、その条件なるものを申し上げますね」
「お願い致します」
「その条件とは、ですね」
「ええ、その条件とは?」
「僕が、萌さんの質問に正解できた暁には」
「鍛心庵さまがご正解なさったら」
「絶対に、僕と一緒に行って欲しいんです」
「どこへ」
「喫茶店へ」
「喫茶店へ?」
「はい、僕がいつも出入りしている喫茶店です」
「なんでまた、そんなところへ」
「そこのママとその妹が、どうしても萌さんを見たいって言うからです」
「なんでこの萌を見たいなどと」
「僕が素敵な女性と巡り合ったよ、と彼らに言ったから」
「そうおっしゃっただけで、どうして萌を見たいってことになるんですの」
「そ、それは、その・・・」
「鍛心庵さま、いいからおっしゃって」
「はあ、あの、その、喫茶店の2人が言いますに、『淡見さんて、その人、ほんまに大丈夫な人なんやろねえ、怪しげな人やないやろね。京都は古い歴史や異聞がはびこってて、結構ややこしい話も多いとこやよって、うちらがその人を面通しして、きちんとチェックしたげるさかい、いっぺんここへそのお人を連れてきなはれ』と申しますもんですから、ぼ、ぼ、僕も・・・」
「僕も、どうなさったんですか?」
「お願いします、絶対に連れてきますから、って約束したんです・・・」
「ほ、ほ、ほ、ほ、ほほ、ほほほほほほほほ」
萌は、今度は先ほどとは全く種類の違う涙、つまりは馬鹿馬鹿しくて笑わずにはおれないような時に、特に女性が流す類いの涙を目にいっぱい浮かべながら、相好を崩して笑い、そして言った。
「ああ、おかしい。可笑しくて涙が出ますわ。鍛心庵さま、よろしゅうございますとも、私もそのお二人に会いたくなりました。鍛心庵さまが萌に正解をお答えいただいたら、すぐにでもその喫茶店までご一緒しようじゃありませんか」
柾樹は、何だか喫茶店のママ姉妹と萌という3人の女性に好きなように弄ばれているような気がして、京都と言う町に住む女性の、何ともいえぬ空恐ろしさに身ぶるいを覚えた。
( 次号に続く )