第29回  申年の示唆

 

 歳神様をお迎えする玄関飾りに元旦の思いを籠めて  撮影 三和正明


歳神様をお迎えする玄関飾りに元旦の思いを籠めて  撮影 三和正明

 

 明けましておめでとうございます。

 今年の干支は申。官製年賀状のスタンプ部分には、あったかそうな温泉につかっている猿の親子がデザインされ、また家庭に届けられる年賀状の紙面には、工夫やアイデアが凝らされた猿のさまざまな可愛い姿やおどけた表情が添えられていて、お正月のお茶の間に明るく楽しい雰囲気を運び込んでくれています。

 特に、子供たちにとっては、十二支の中でもその親しみやすさと言う点で猿は高い人気を誇っている上、その名を呼ぶに当たって、末尾に「さん」を付けるだけでなく、接頭語として「お」という丁寧語・尊敬語まで付ける干支の動物といえば、猿と馬くらいしかいないという点でも、猿は実に好意的な存在として認識されているように思えます。

 が、子供たちにはそんなに高い評価を得ている「お猿さん」が、こと大人の見方となると一変するのは一体どうしたことでしょう。

 例えば、猿という言葉を使った昔からの言い回しを見ると、猿には誠に申し訳ないと思われるような表現が多すぎるように思えるのです。

 その典型とも言える言葉が「猿真似」。広辞苑によれば「猿が人間の動作をまねるように、本質を理解せずにうわべだけをまねること、むやみに他人のまねをすることを軽蔑していう」とあり、同じ仕草を他の動物がすれば「カワイー」となるところを、こと猿が真似るとなんでここまで悪意に満ちて解釈されるのだろうか、と哀しくなってしまいます。

 他にも、「猿芝居」(同じく広辞苑の説明によれば「すぐ見透かされるような浅はかなたくらみ」)、「猿知恵」(同「こざかしい知恵、浅はかなたくらみ」)、「猿賢し」(同「こざかしい、わるがしこい」)、「猿目」(同「ひそかに人の様子をうかがう目つき」)等々、同じことを他の動物がすればむしろ可愛いと絶賛されるような行為が、猿においては、常に厳しい批判的視点から解釈されてしまうのです。

 諺だけではありません。「サルカニ合戦」の猿に至っては、動物園で子供たちがみているお猿さんからは想像もできないくらいの非道な悪役に仕立て上げられてしまっていて、猿がその事実を知ったなら、猿のしっぺ返しならぬ「猿の惑星」が実話化するのでは、と、怖くなってしまうほどです。

 このように、幼い子供たちの目には、他の動物と同じようにひたすら可愛いと映る猿のさまざまな行為なのに、大人の目に映る猿となると、過酷なほどに悪意に満ちて取り上げられてしまうほどに一変するのは、一体どうしてなのでしょうか。

 その理由の一つとして考えられるのは、猿以外の動物はその知恵や器用さなどにおいて、滅多なことで人間のレベルに近づくことは出来ないのに対して、猿ばかりは、うっかりしていると本家本元の人間のレベルを凌駕し、下手をするとお株まで奪われてしまうという恐るべき能力を持っているために、油断も隙もない動物として古くから脅威に感じられてきた経緯があったからではないでしょうか。

 が、それだけであれば、やっかむ人間の方も可愛いもので、せいぜい猿に負けそうになったら「反省」のポーズでもとったらどうですか、で済む話ですが、問題は、もうひとつの理由にあるように思われます。

 というのも、人は、大人になるにつれ、他人と自分とを一つの価値観で比較するようになり、相手が自分よりも優れているのか、劣っているのか、という二元論的感覚で彼我の相対的位置づけを図るようになるという悲しい性を持っています。それでも、それが個人間の優劣比較ならたわいもないことと済ませられるのですが、それが民族や宗派といった大きな組織間での比較というレベルに発展していきますと、謂れのない差別や戦争の原因にもなると言う点で、看過できない深刻な問題に発展することでしょう。

 実は、猿を侮蔑して嘲笑している人間は、その本質において、個人間の優劣を論じているのではなく、人類対猿という集団間の優劣を比較して、人類が上で猿は下、という二元論的世界観での勝者であることに満足している、という正に悲しい性を露呈しているのです。

 もともと現実の世界や大自然は、そうした単純な二元論で構成されているわけではなく、各種の要素が絡み合って一つの全体を構成しており、その中にあっては、人は決して万物の頂点に君臨しているわけではなく、人もまた他の多くの生物たちと同様に、強みもあれば弱みもあって、その優劣の全体をお互いに認め合う中で、生物としての調和のとれた生き方を保ちあっているのです。そうした真実とは正反対の二元論的世界観を貫こうとするからこそ、矛盾や混乱が絶え間なく起きているのではないでしょうか。

 申年が示唆しようとしていることとは、正にこの点にあるのではないでしょうか。

 猿を笑う者は、神から笑われるのです。猿を笑う生き方とは、他者と自分とを単純な要素で比較・認識し、そこに自分の優位性と心の安寧を感じとる生き方であって、摂理に違背した生き方なのです。

 そんな生き方に訣別し、自分が求めようとしている価値や生き方が他人の模倣や追随ではなく真剣に自分自身が追い求め続けてきている独自の尊いものなのだ、という誇りと自負を大切にする生き方、そんな自分と同様に必死で真摯な思いを胸に秘めて頑張っている他の人に対して心からの共感・共鳴と称賛を惜しまない生き方、経験の有無や地位の高低を価値判断の尺度にはせず、求めているものの質の高さ、極めようとしている目標の気高さ、賭けようとしている理想の崇高さをこそ己の存在意義として神に問う生き方、を希求していくことこそが、摂理にかなった生き方と言えるのではないでしょうか。

 この申年の元旦に、そういう生き方を本年71歳を迎える自分自身への課題としてみようと思ったのですが、「気負い過ぎだ」と、今度は猿に笑われるかもしれませんね。

( 平成28年1月1日 記 )