堀川今出川異聞(22)
いわき 雅哉
第四章 洛西慕情
◇ 山名家残照(1)
柾樹の眼に飛び込んできたお堂は、千本釈迦堂の境内の最も入口に近い場所に建てられている小さくてついつい見過ごしてしまうような不動明王堂だったが、柾樹を驚かせたのは、そのお堂の中に祀られている不動明王尊について書かれたお堂前の駒札の記述だった。
「山名氏清(明徳期)山名宗全(応仁期)念持佛 不動明王尊」
柾樹が初めて時空を越えて山名持豊(宗全)公と歓談したあの日、彼が、山名の家を語るに決して忘れてはならない存在として語ってくれた自分の父方の大叔父であり母方の祖父でもあった山名氏清。その氏清公が信仰していたこの不動尊を、その大甥であり孫でもあった彼が念持佛として継承し、熱心に崇めていたのか・・・。持豊公が、あの日、力を籠めて氏清公のことを話していた背景には、そんな秘話があったのか・・・。柾樹は、単に話の流れとして聞いていただけの言葉の奥に、実は、深い思いやつながりが秘められていることを思い知らされ、人の話を聞く自分の注意不足を痛感した。
そういえば、萌との会話の中にも、そんなことが数多くあったのではないか。一生懸命に話を聞いているようで、その実、萌の美しい顔ばかり眺めて、話の深い意味や内容には上の空だったのではないか。言葉の深い意味を聞きとると言うこと、読み取るということに、昔の人はもっと命を賭けていたのではないか。言葉のやりとりとはそういうことではなかったのか。その意味で、いつも萌に見とれてばかりいて萌の話への集中力がいま一つの柾樹に対して萌は不満をもっているのではあるまいか。そんなことを反省しながら、改めて不動堂の中の薄暗い不動尊の様子を覗き見ようとした時だった。
「お気づきになりましたのね、鍛心庵様」という美しい声が柾樹の背後から聞こえてきた。
萌だ。すかさず振りかえった柾樹の目の前に、匂うように美しい萌がにっこり笑って立っていた。瞬間、柾樹は、萌が「気づいたか」と声を発した意味が、氏清公と持豊公の信仰を通じての深いつながりがあったことに、今、気づいたか、と言うものだったのか、はたまた萌が話す言葉に秘められた深い意味や大切なメッセージを聞きとろうとするよりも、いつもその顔や表情ばかりに注目している不埒な自分に、今頃になって気づいたのですか、と言うものだったのか、が分からなくなり、思わず「ごめんなさい」と答えてしまっていた。
その柾樹の心の迷いを可笑しく思ったのか、萌は一層相好を崩して柾樹に歩み寄ってきて、少し意地悪気に言った。
「私の方が遅れてきたのに、どうして鍛心庵様がお謝りになるんですの。ということは、何か私に詫びないといけないようなことをお考えになっておられたからかしら」
「い、いえ、そんなことは少しも考えてなんかいませんよ、ただちょっと気になることがあったものですから」
「気になることって、それは一体何だったんですか」
「あの日、持豊公のお座敷で色々とお話をお聞きした中で、特に印象に残ったのが、山名氏清公という存在だったんですが、その方と持豊公とが、同じお不動様を念持仏として継承されていた、ということをこのお堂の前の駒札の説明で知ったものですから、ちょっとびっくりしたんです」
「ということは鍛心庵様とも不動明王様つながりだから、ですか」
「え、お不動様つながりって、何で」
「だって鍛心庵様の守護仏もお不動様でしょ」
「なんでそれを・・・」
「なんでって、鍛心庵様は酉年生まれでいらしゃいますもの」
柾樹のように酉年生まれは不動明王、申年生まれは大日如来といったように、すべての生まれ年には固有の守護仏が定められていることを萌は言っているのだが、そもそも柾樹が酉年生まれだ、などと言う話はいまだかつて萌に話したことなどない。
「いつ、僕が酉年生まれだなんてことをお話しましたっけ」
「お伺いせずとも、初めてお目にかかった時から、萌には分かっておりました」
「へえ、僕がお話もしていないのに、ご存じだったの?」
「そうですわ、鍛心庵様がいくら隠し事をなさっても、萌にはすべてお見通しなんですよ」
「それは怖い。ならお聞きしますが、僕が萌さんのことをどう思っているのかも、お見通しなんですか」
「さあ、それはどうでしょう。萌に関係するようなこととなりますと、萌には何も分からなくなりますのでね」
柾樹は、自分よりもはるかに若い萌に、好きなように弄ばれてしまっている。正に惚れた弱みだ。こう言う場合は状況を転換させねば、と思い、柾樹は矛先を変えることにした。
「ところで、萌さん。今日は、山名家について理解を深めたいという僕の要望にこたえて、この千本釈迦堂に来るよう言われたんですが、ここがそんなに山名家と深いつながりのある場所なんですか」
「ええ、とても。事実、その最初の証拠は今しがた鍛心庵様がご自分でお見つけになられましたものね」
「はい、何気なく見つけた不動堂の前の駒札を見て、驚いたんです」
「そうでしょうね。あの日、持豊公が随分と力を入れて氏清公のことを話されていましたものね。ここ大報恩寺 千本釈迦堂は、山名家のお邸があった西陣地区の一番西の端にあって、創建は鎌倉時代にさかのぼる古刹ですが、山名家も関わって洛中を灰塵に帰したという応仁の乱でもその本堂は焼けることなく、鎌倉時代に創建された当時のままの装いを今に残しているんですよ」
そうか、だから本堂が国宝に指定されているんだ、と柾樹は一人で納得しながら、生き生きと話す萌の顔をじっと見つめつつ、その説明に聞き入った。
「鍛心庵様、今、立っておられるところから『まわれ右』で、くるりと真後ろに向きを変えていただけますか」
「こうですか」言いながら、柾樹は両手を腰に当てて、回れ右をした。
「そう、そうです、良くできました」
俺は幼稚園児かよ、と柾樹は思いながらも、萌にそんなからかいを受けることがまた楽しくて、はにかみ笑いをした。
「目の前に、規模は小さいけれども、姿・形の整ったお堂が建っていますでしょ。これもまた山名家とは大変深いつながりのあるものなんです。実は、この建物は、この千本釈迦堂の西隣にある北野天満宮の境内に足利義満公によって建てられた『北野経王堂願成就寺』と言う名の壮大な寺院が江戸時代になって荒廃し、壊されることとなった時に、その残り木を使って縮小・復元されて出来上がったんだそうです。その経緯がここに立てられている駒札に詳しく書かれていますので、ちょっとお読みくださいまし」
そう言い終えると、萌は少しその場を外すようにして柾樹との距離を置いた。柾樹は、寄り添って一緒に読みたいのに、と思いながら、一生懸命にその駒札を読んでみた。が、一度読んだくらいでは、その意味がよく分からない。「これ、難しいですね」という顔で、萌を見るが、萌は素知らぬ顔だ。何度か丁寧に読み直してようやくそこに書かれている大方の意味がなんとなく理解できた。それほどに複雑な歴史的経緯が書かれているのだが、その内容は概ね以下のようなものだ。
足利三代将軍義満の治世であった明徳2年(1391)に、11ケ国もの大領地を支配していた陸奥大守山名氏清が、将軍家に叛いて兵をあげるといういわゆる明徳の乱が起きたが、将軍義満はこれを内野の原において討滅した。
その翌年、義満は、将軍家を叛いたとは言え氏清のかつての功労武勲を思い、氏清とその一族、あるいは戦に倒れた敵、味方兵士の追福のために1,100人もの僧侶を集めて大供養を催した。
さらに応永8年(1401)には、北野社の社頭に東山三十三間堂の2倍半という大堂を建立し、これに「北野経王堂願成就寺」と名づけて、毎年10月に10日間に亘って万部経会並びに経典書写などの仏事を行ない供養した。
この行事は「北野経会」と呼ばれ、京洛の最大行事として代々の幕府によって踏襲されたという。また、応永期には大部の経典「北野社一切経五千五百余巻」(重要文化財)の書写奉納も行わしめた。観世謡曲「輪蔵」はこの一切経の「輪蔵」を謡ったものである。
だが、この大堂も江戸期に入ると荒廃甚だしくなり、寛文11年(1671)には解体縮小されて小堂となった。その際、仏像並一切経五千余巻、義満筆「経王堂額」什宝遺物の一部が本寺である当山に移され現在霊宝殿(収蔵庫)に重要文化財として保存されている。
今、目の前にあるこの小さいお堂は、元の北野経王堂願成就寺が解体縮小された際に当山に運ばれてきた遺構の木材を使い、北野経王堂願成就寺を縮小・復元して建てられたものであり、堂の右前には義満が追福した山名氏清の碑が建てられている。
何度も読んでやっとその意味を理解した柾樹は、いそいそと萌のそばまで行き、やや興奮気味に言った。
「またぞろ氏清公のお名前が出てきましたよ」
「そうでしょう。で、鍛心庵様は、それをどうお読みになりました?」
「え、どう読んだって、書いてあるようなことがあったんだな、と思って、ただ読んだのですが・・・」
一瞬、萌の表情が曇った。
「あら、それでは萌がここに鍛心庵様をお連れしてきた意味がありませんわ」
「と言われますと・・・」
「だって鍛心庵様は、山名の家についてもっと知りたいので、萌に案内しろと言われたんですよね。なのに、駒札に書かれてあるままをお読みになって、ああそうか、では、お連れした意味がないじゃないですか」
「と言われても」
「鍛心庵様。先人の息吹に触れる、先人の生きた証に迫る、ということは、どういうことだとお考えでしょうか。そうした先人への接触を望まれるのであれば、書かれている文章をただそのまま読んで理解したつもりになるのではなく、その記述の背後にあるもの、奥底に沈澱しているもの、底流に流れているもの、もっと言えば、その記述には書けなかった真実そのものに触れようとする強いお気持ちがなければ、いけないのではないでしょうか」
「・・・・・・」
「萌は、初めて鍛心庵様にお目にかかった時から、鍛心庵様に強く惹かれておりました。それは、鍛心庵様が単なる興味本位で歴史に関心をお持ちになっておられるのではなく、歴史的事実にかかわってきた実際の人々の思いや悩み、夢や失望、感動や落胆を直接ご自身の五感で理解し、想像し、咀嚼し、共感しようとの思いで、歴史に向き合おうとなさっていると感じたからです」
「・・・・・」
「その鍛心庵様が、あの駒札の字面からだけでしか、この場所で実際に起きていた事件を見ようとなされない。それなら萌はおそばにいる必要もありません」
「・・・・・」
「萌心庵様に逢うことをどれほど嬉しく思い、その一方で、いつかは萌の説明や案内に飽き足らなくなられて萌から離れて行かれるのでは、との危惧からどれほど不意に涙したことでしょう。そんな萌の気持ちに対して、今の鍛心庵様は、あまりにも歴史への向き合い方に不真面目過ぎます。そんなことなら萌に託されている務めをわざわざ果たす必要もないとして、萌は鍛心庵様の元から無理やり引き離されることになりましょう。ひょっとして今、その判断が下されてしまったかもしれません。それは余りにもむごいことです」
柾樹は、字面だけでも理解の難しい駒札の内容を何とか理解して、そのまま萌に感想を述べただけなのに、どうしてそこまで萌の感情が激しているのか、が全く理解できず、かつ萌の話した最後の言葉にひっかかりを覚えて、口を開いた。
「萌さん、僕が悪かった。謝ります。が、今、萌さんが言われた最後の言葉の意味は何ですか。なんで、萌さんは、僕から引き離されるのですか。一体誰が萌さんを僕から引きはがしにかかるのですか」
「・・・・・」
今度は萌が黙ってしまった。が、長い沈黙の後に萌が口にした一言は、柾樹の浮ついた心に喝を入れるに十分な厳しいものだった。
「鍛心庵様がそこまでおっしゃるのなら、私も気持を固めました。こうしましょう。まずは、鍛心庵様が今お読みになられた駒札からお感じになられた率直なご感想を改めて今一度お聞かせ下さい。そのご感想が萌の焦眉を開くようなものであったら、萌は、今の鍛心庵様のご質問にお答えしましょう。でも、鍛心様のご感想が萌を失望させるものであった場合には、萌は、この場から瞬時に姿を消し、二度と鍛心様の前に現れることはないでしょう。それでよろしいですね」
柾樹は、一気にそう畳みこまれて、一歩も引けない状況に追い込まれてしまった。まさか、ここで、今の駒札の奥の意味など何も感じることはできませんでした、などとは言えない。さりとて、必死に考えて出した答えが萌を失望させるようなものであれば、萌とのロマンスもまたここで終わってしまう。柾樹は、想像もしなかった状況展開に当惑しつつ、しばし沈思黙考した上で、やおら口を開いた。
「分かりました。お受けしましょう。でも、たった一つ条件があります。それだけは聞いて下さいませんか」
萌は、少し表情を緩めて答えた。
「そう言われると思いました。どうぞ今お考えになっておられる条件とやらをすぐに実行に移して下さって結構です」
柾樹は、そこまで心を読まれているのか、といささか薄気味悪くなってきたが、どんなことがあっても、この瞬間に萌との永遠の別離にだけは見舞われたくない、との思いから、自ら条件として申し出た行動に出ることとした。
( 次号に続く )