堀川今出川異聞(14)

いわき 雅哉

 

西陣の拠点跡とその歴史を示す石碑と駒札  撮影 三和正明

西陣の拠点跡とその歴史を示す石碑と駒札  撮影 三和正明

 

第三章 時空往還

持豊公 陣中の閑(1)

 「心して西に向かわれよ」との托鉢僧の言葉とは「西陣に向かえ」ということだったのか。喫茶店でのたわいない話からたどり着いたこの結論が、はたして正しいものかどうかは分からなかったが、他に納得のいく答えが見当たらない以上、この線で動くしかないな - 柾樹はそう思った。そう思った以上、行動を開始するほかない。翌日から早速柾樹は西陣に「心して」足を踏み入れようと決心した。

 とはいっても、西陣は広い。そのどこから西陣に入っていけばいいのか。そう思っていた時、不意に柾樹の脳裏に浮かび上がったのは、いつものあの小さな一本の石碑だった。柾樹のマンションの近くにある堀川今出川交差点を北へ少し歩いた西側にガソリンスタンドがあるが、そのすぐ北側のマンションの敷地の隅っこに、南を向く形でその石碑はぽつんと立っている。少し上部が欠けたその石碑には「山名宗全邸址」と刻み込まれ、左側面には「昭和十四年三月建之 京都市教育委員会」の文字がはっきりと読み取れる。

 広く知られるように、山名宗全は、一色・京極・赤松氏らと共に四職と呼ばれる要職に就いて足利幕府を補佐した室町時代中期の代表的守護大名だ。が、11年に及んだ応仁の乱の西軍の大将として京都中を灰燼に帰した首謀者の一人と見られているためか、はたまた若い頃の領地拡大時の猛々しいイメージが強すぎることもあってか、人気と言う点では今一つのところがあり、柾樹は、この人物の存在の大きさと、後世の人々がこの人物に抱いたイメージとのギャップに、かねてから少なからざる関心を抱いていた。

 そもそも「西陣」という地名は、まさに彼が西軍の本陣を置いていたこの石碑の建っている場所に由来するものだ。時代祭においても彼は中世の京都の顔の一人として華やかに行進する。その山名宗全をそんなマイナスイメージだけで捉えていてよいものなのだろうか。柾樹はこの石碑の前を通るたびにそう強く感じていたのだ。

 柾樹がそう感じる背景には、テレビドラマなどに登場する歴史上の人物が余りにも一面肥大型の演出によって描写されすぎていることへの強い違和感があったからだ。清盛も信長も政宗も、その若い頃は決まってならず者風に演じられる。たしかに彼らは、既成概念や既得権益への強い反発心と、それゆえに現状を変えようとする革命児精神を強烈に持ち合わせていたとは思われるが、その根底に秘めていたはずの鋭い時代認識やエスプリが、テレビ映像となった途端に無神経に捨象されてしまうのだ。

 また彼らはいずれもそれなりの格式を持つ家の子として生まれ育ってきているがゆえに、小さいころから武門のリーダーとなるためのたしなみや、公家との交わりで会得しておかねばならない作法・所作・芸道などの知識や心得も十分に教え込まれてきたはずだ。にもかかわらず、いざ映像化されるとそうした部分は一顧だにされず、性格的に乱暴とか強烈ということだけが過剰にクローズアップされ、現実感を欠いた映像がお茶の間に届けられてしまう。

 そうした映像制作癖からすれば、仮に山名宗全がドラマ化されればきっと只の荒くれ大名としてしか描かれないのだろうな、との軽い同情心を山名宗全に向けながら、柾樹はこの石碑の前をこれまで何度か通り過ぎていた。そんな感慨もあったため「西といえば西陣」と聞いて、柾樹は咄嗟にこの石碑の立っている場所を思い起こしたのかもしれなかった。

 といっても、いつもは、この石碑にちらっと眼をやったあとは、そのまま素通りしてその先のスーパーマーケットに入ってしまう柾樹だが、この日は、この石碑から西陣に入ろうと考えていたので、ガソリンスタンドと石碑の間の細い道をはじめて西に歩を進めた。正に、西陣エリアの中に足を踏み入れたのだ。

 と、程なく右側の民家と民家の間の極々狭い場所に、先ほどのシンプルな石碑に比べて、いかにも味のある楕円型の石碑とその横に立つ駒札が、柾樹の目に飛び込んできた。その場所は、よほど意識していないとあっという間に通り過ぎてしまうほどの誠に小さなスペースなのだが、そんな小ささにも関わらず、その空間からは一種オーラのようなものが発せられているのが感じられ、柾樹はギクっとした。

 そこに鎮座する石碑には「山名宗全舊蹟」と書かれた個性的な文字が彫り込まれ、横の駒札には「山名宗全邸宅跡」とのタイトルが付されて次のような文章が記されている。

 山名宗全は応永十一年(一四〇四)、但馬国(現在の兵庫県北部)出石に生まれ、名を持豊といい、後に出家して宗全と称したが、赤ら顔であったので「赤入道」とも呼ばれた。但馬をはじめ十二箇国の守護職を兼ね、当時全国は六十余州あったことから「六分の一殿」とも呼ばれた。

 子供がなかった室町幕府八代将軍・足利義政は、弟・義視を後嗣にしようとしたが、その後、義政の夫人・日野富子に義尚が生まれたため、将軍職をめぐる後継者争いが起こり、守護大名のお家争いも絡み合い「応仁の乱」へと発展した。義尚を擁する宗全は、この邸宅を本陣として、室町今出川の「花の御所(足利家の住宅・室町幕府)」に陣を置く義視方の細川勝元と東西に分かれて十一年間に及ぶ戦いを繰り広げた。このため京の町の大半は焦土と化した。

この情景を詠んだ歌に次のようなものがある。

なれや知る 都は野辺の 夕雲雀
あがるを見ても 落つる涙は

この地にあった山名家代々の邸宅も焼失し、宗全は文明五年(一四七三)、陣中で没した。このあたり一帯を「西陣」と呼ぶのは、山名宗全率いる西軍が陣をおいたことによる。
なお、宗全の墓は南禅寺の真乗院にある。

京 都 市 

 柾樹は、初めて西陣に足を踏み入れて最初に見つけたこの駒札の文章を、何度も繰り返し読み直し、山名宗全という人物に強く思いを馳せた。全盛時には国土の6分の1を所領とした彼が、陣中にて69歳で没するに際して、胸中にどんな思いを去来させたことか。その最後の日に至るまでの年月を彼はどんな構想と人生観で生き抜いてきたのだろうか。

 柾樹は、名前だけは知っていてもその実像については何一つ知らない山名宗全という人物への思慕の念が、この石碑と駒札の前で大きく膨れ上がっていくのを胸中深く感じながら、しばしその石碑から離れられずにいた。時々その道を通る人々が、「この人、こんな石碑をなんでそんなに食い入るように見ているんだろう」といった表情で柾樹の背後を通り過ぎていく。

 さすがに柾樹も、そろそろその場を離れ、さらに西陣の奥へと足を向けようと、左に踵を返し、次の一歩を踏み出そうとした。

 と、その時だった。

「もしや、鍛心庵様ではございますまいか。いやたしかに鍛心庵様でございましょう」

 どこからともなく聞こえてくるその声に、柾樹はキョロキョロと辺りを見回した。と、突然、柾樹の目の前に、甲冑に身を固めた一人の武者が立ちふさがり、野太い声でこう言った。

「先ほどから当主の山名が、鍛心庵様のご到着を今か今かとお待ち申し上げております。ささ、どうぞ邸内へお入りください。私めがご案内申し上げます」

( 次号に続く )