堀川今出川異聞(10)

いわき 雅哉

 

美しい池面に浮かぶ渉成園の茶室 撮影 三和正明

美しい池面に浮かぶ渉成園の茶室 撮影 三和正明

 

第一章 有為転変の幕開け

(3)覚醒の秋

◇ 謎解きの日々

 東福寺のもみじに癒され、またその堂宇から漏れてきた修行僧の熱い読経に背中を押されるようにして、柾樹は、京都での生活を続ける意味を解き明かさねば、と思い始めていた。ほかでもない、夏の終わりに托鉢僧から投げかけられた謎の解明にきちんと向き合い、自分なりに答を出していかねばならない、という宿題のことだ。

 ある時は、ひょっとしてその解は「己の生活に厳格な日課・規則を定めよ」ということではあるまいか、と考えた。

 あの修行僧達も午前3時や4時の起床に始まり、朝食、朝の座禅、お堂内外の掃除、作務と呼ばれる諸作業、午前の茶礼、昼食、午後の作務、午後の茶礼、夕方のおつとめ、夕食、夕食後の座禅、夜の茶礼、消灯後の座禅を経て就寝という厳しい日課をこなしている。日によってはこれに托鉢や老師の講義受講などのスケジュールが入るほか、さまざまな儀式・作法の定めに則った喫茶喫飯の規定や煎点薬石の法などの実践も課されるなど、いわゆる「清規」(シンギ)と呼ばれる行動規則を必死に体得していくことで、己を厳しく鍛えている、という。

 それにならって「自分流でいいから厳格な日課を定め、その取り決めに従って毎日を過ごしなさい。そうでなければ弱い自分に振り回されて心の安寧など得られはしませんよ」と、あの托鉢僧は言いたかったのではないか、と、柾樹は考えてみたのだ。

 が、おおぜいの雲水が悟りを求めて修行していく上で必要とされてきた厳格なプロの規則を情緒不安定な今の自分に課していくことなど、あの托鉢僧が柾樹に求めている答だ、などとは到底思えなかった。俗世の個人が日々を意味あるものにするための方策である以上、もっと味わいや面白みがなければ、自分で定めた日課によって自分が潰されてしまいかねず、それでは元も子もないではないか、と感じたからだ。

 それに、もしあの托鉢僧が「我々もそういう厳しい日課をこなしながら修行しているのだから、あなたもそうしなさい」と言いたかったのであれば、「まずは参禅されよ」と言ったはずだ。柾樹の謎解きは振り出しに戻る。

 また、ある時は、「修行にふさわしい身だしなみ、装い、しぐさに改め、形から心を変えよ」と問うているのだろうか、と考えたこともあった。禅僧なみに作務衣を着込み、頭を丸め、寒くとも裸足で我慢し、ことを行うたびに合掌・感謝する、という外形から入ることで、極意に至ろうとする日本の文化らしい発想ではないか、と思ったからだ。

 が、所詮うわべの衣装や形を真似てみたところでいかにもインチキ臭く嘘っぽい。たかが単身生活者に過ぎないのに作務衣を着て頭を丸め、ことあるごとに合掌していたら、どう考えてもただの変人に過ぎないではないか。さすがにこればかりは自分自身がやりたくない一心で、柾樹はさっさと没にした。

 あんなこんなでいくら頭をひねっても妙案が浮かんでこない。最後には「そんな解などはじめから存在しない」というのが答ではないか、と思ったこともあった。
毎日を修業と自らに言い聞かせ続ける意志と行為こそが答であって、それ以外に特別の工夫や仕掛けなど必要ないのではないか、答がないという答がいかにも禅問答らしい解ではないか、と思えてきて、結構それが気に入った答のようにも思われた。

 が、元来が飽きっぽい自分の性格からすれば、この答は解にはならない。それをあの僧は見抜いていたからこそ「長きに亘って心の安寧を持続していく方法とは何か、を自身の思案を通してしっかりと見つけ出せ」と言ったのだ。柾樹は、この答も意味なき解として、没にした。

 慣れぬ自炊に苦戦し、食器を洗い、掃除機をかけ、洗濯機を回し、買い物に出かけ、中身と曜日を間違うことなくゴミ出しをしながら、見当もつかない答を探す日々に、柾樹もさすがに倦みだしていた。「熱しやすく冷めやすい」がゆえに、最初は情熱を傾けるがすぐに飽きてしまって次に目移りしてしまう自身の性格からも、柾樹がこの地道な謎解きに挑み続けることにはそろそろ限界が見え出していたのだ。

 そんな秋も終わりのある日、東本願寺の飛地境内地である名庭 渉成園(枳穀亭)を拝観する機会に恵まれた柾樹は、ちょうど良い気晴らしのチャンスでもあると考えて堀川今出川のマンションから出かけていった。

 この渉成園は、中央に配された美しい池の周囲に個性的な建物が点在する池泉回遊式庭園で、洛北の詩仙堂を開いた石川丈山が作庭したと言われる本当に美しいお庭だ。どこから眺めても一幅の絵になる光景に、柾樹の目は吸い込まれていく。

 中でもひときわ目が引き寄せられたのは池の奥におさまっているお茶室のなんとも言えぬ味わいのあるたたずまいだった。近寄ってみると、「漱枕居」と書かれてある。
「流れに耳を漱ぎ、石を枕とする」ことを理想とする高雅な生き方を説いた中国の思想から二つのキーワードを抜き出して茶室の銘にしてあるらしい。と同時に、この文章を誤って「石に耳を漱ぎ、流れを枕とする」と解し、その間違いを友人に指摘されても頑として非を認めず自己流の解釈をしたという晋の孫楚のエピソードも踏まえることで、その命名の由来を深めているのだろう、なるほどうまく考えたものだ、と柾樹は感心した。

 とその瞬間、柾樹の全身に強烈な電流が流れた。
「住まいに名前をつける。そうだ、それだ。それが答えだ!」
 ともすれば無為に過ごしてしまう住まいに名前をつけることによって日々の生活に意味と目的を与え、生きることの本質を自覚させる。そのアイデアこそが修行僧から問われていた「何でもない日々の暮らしに意味を持たせ、己が心に躍動力を回復させるお手前ならではの創意工夫」の答に違いない。

 まず、自分の部屋を「己が心に躍動力を回復させるための修行の場」だと自覚し、その思いを持続させるための方策として、「何でもない日々の暮らしに意味を持たせる」名前を自室につける。そうすることで、単身生活というリズム感の乏しい生活空間に常に刺激を与え続けるための仕組み・仕掛けが生まれ、抽象的な日々の営みに具象化の息吹を吹き込むことができる。「その工夫を自らの発意によって生み出されよ」とあの修行僧が問うていた答はこれだったのだ ― 柾樹はそう強く確信し、興奮を覚えた。もう少しで池にザブザブと入っていきそうなくらいの勢いだった。「部屋を出て、外に身を置いてみるものだな。答はいつも思わぬところに宿っている」。柾樹は急に心が軽くなり、小躍りしながら渉成園(枳穀亭)を後にした。

 その帰路のことだ。柾樹は偶然小さな祠に出くわした。誰一人訪れる人とてないその神社に近寄ってみると、何と「文子天満宮」と書かれてある。あの夜の北野天満宮境内で見た摂社「文子天満宮」と同姓同名の神社がなぜこんなところにもあるのだろうと不思議に思い、柾樹は鳥居前の駒札を読んだ。

 すると、ここは、道真公の乳母であった文子さんが、大宰府で亡くなった道真公から、
「われを右近の馬場に祀れ」というご託宣を受けながら、貧しくて社殿の建立などかなわなかったため、やむなく自宅に小さな祠を建てて道真公をお祀りしたといわれる天神信仰発祥の神社、また北野天満宮の前身とも伝えられる場所だ、とある。柾樹は、まるで「先日は漆黒の闇に恐れをなして逃げ帰ったほどの弱虫ならば、昼間、ここでよく拝んでおいきなさい」と告げられているかのように感じ、恐る恐る鳥居をくぐった。

 誠に狭い境内だが、「菅原道真公が大宰府へ御左遷の途次お立寄りの際に腰掛けられた」と書かれた「菅公 腰掛石」が大切に残されている。柾樹は、その石に腰掛けられ傍らに侍す文子さんと会話をされている道真公の息吹を感じ取り、思わず頭を垂れた。と同時に、その後、道真公の御託宣を受けながらも貧しいためにやむなく自宅に小さな祠を建ててお祀りした、という文子さんの健気でいじらしい心根もまた胸の内にひしひしと伝わってきて、胸を詰まらせた。

 柾樹は、そっと帰路に着こうとしたが、ふと、この場所で再会できるよう導いてくださった文子さんの優しさに少しだけ甘えてみたくなった。というのも、今しがた、近くの渉成園で閃いた「住まいに名前をつける」という考えが果たして正解なのかどうかを聞いてみようと思いついたのだ。

「文子様。今住んでいるマンションの部屋に何かそれらしい雰囲気の名前をつけることが托鉢僧から出された問いへの答ではないかと考えたのですが、いかがでしょうか」
と、一瞬、澄んで凛とした声で「その答でよいのではないでしょうか」と言う声が背後から聞こえた。「ん?一体誰の声だ」- 柾樹は後ろを振り向いた。

 が、誰もいない。ただ、鳥居をくぐって足早に外に出て行こうとしている一人の女性の姿が眼に入った。「おや、誰だっけ。どこかで見たことがある。そうだ、先日の時代祭の帰りに後ろから声をかけてきたあの女性だ」。柾樹は急いで後を追ったが、もうどこにもその姿は見えなかった。「あの時も突然消えたよなあ、あの人は」- 柾樹は、狐につままれたような思いで、改めて文子天満宮に戻り、一礼した上で、帰途についた。

 それからの柾樹は、自分の部屋につける名前をどうするかに心を傾けた。わざわざ人に言う必要もないのだから何でもいいといえば何でもいい。だが、その場所での自分の生活のありようを端的に表わす名前をつける以上は、一言でそれらしい雰囲気と自覚の念が表わされたセンスのよいものでなければなるまい。柾樹は呻吟した。

 で、あれこれ候補名を考えた結果、最終的に心を鍛える場を意味する「鍛心庵」にしようと決めた。心を練る場という意味で「練心庵」という案も考えたが、心を練っていくレベルはまだ先の話であるし、何といってもその語呂が「単身庵」に通じているのが面白いと思い、「鍛心庵」と定めた。

 柾樹は、せっかく決めた部屋の名称について、その思いや由来を常に想起できるよう、お寺などの山門に掲げられている扁額を意識して、右から左へ「鍛心庵」と筆で大書し室内に掲げてみた。と、不思議なことに、その瞬間、部屋の空気がガラリと変わり、部屋と自分との間に、それまでは感じたことのなかったある種の創発空間的感覚が生まれてきたのだ。

 こうして「心を鍛える場」としての意味づけをこのマンションの一室に持たせたことで、「毎日を修行と思わねば」と自分に無理強いしてきた重苦しい感覚が心の中から消えていき、力みのない素直な気持ちで日々に臨めるようになってきた。

 また、不思議なもので、自分で名前をつけたのだからそれに恥じない自分であらねば、という責任感のようなものも芽生え、「鍛心庵」の亭主にふさわしい日々を送らねば扁額に笑われる、という意識が自然に湧き出てくるようにもなった。

 そうなると、次々に処理しなければならない炊事、食器洗い、後片付け、掃除、洗濯、買い物、その他雑事も一向に苦にならず、しかも追い立てられるような感じも消えていくのだ。柾樹は改めて心の作用の大きさに驚かされた。毎日こんなに自由でのびやかな時間帯があったのか、と思えるほどに時はゆったりと流れ、行動することすべてに感謝の気持ちがつきまとうようにもなった。

 こうして柾樹は、どんな雑事の中にも愉快さが宿る日々をエンジョイ出来るようになってきたが、あの日、あの托鉢僧が「その解を見出された後は、心して西に向かわれよ。さすれば、お手前の心の壁は取り払われ、知と情の高まりはお手前の世界を大きく広げることとなりましょうぞ」と言われていた部分が次の課題になるということなど、もうすっかり忘れ去ってしまっていた。

( 次号に続く )