堀川今出川異聞(55)

いわき 雅哉

 

「柾樹が喫茶店周辺の往訪先を備忘的に手書きしたマップメモ  撮影 三和正明」

第六章 予期せぬ暗転

◇ 一本の電話(2)

 いつもの喫茶店の和やかな雰囲気を突如打ち破った携帯電話でのやり取りを終えたあと、楓は一言も発することなく溢れ出す涙をハンカチでぬぐっていた。

 柾樹は、どう声をかけてよいのか戸惑いながらも「どうした、楓。何か悪い知らせでもあったんか」と楓の顔を覗きこむようにしながら訊ねた。

「ごめんなさい、先輩、それに皆さんにも申し訳ありません、突然取り乱してしまって・・・」

「いや、いや、世の中には予期せぬ時に予期せぬことが起きるもんや。心配ご無用、楓さん、おばちゃんかて若い時にはそんなことしょっちゅうやったさかい、全然気にせんでよろしい。それより人に言うて心が晴れるようやったら、ここでみんなに告白しはっても全然かましまへんえ、楓さん」

「これ、姉ちゃんて、自分の若い時と同じやと思うてどうすんのん。楓さんには楓さんにしか判らん世界があるんやよ。ねえ、楓さん」と、妹のサッちゃんがママを制する。

「ひとまず、出よか、楓」― 柾樹が楓にそっと話しかけ、楓は静かに頷きながら、「皆様、せっかくの楽しいひと時でしたのに、急にお見苦しいところをお見せしてしまって本当に申し訳ありませんでした。また日を改めてお邪魔させていただきますが、今日のところはこれで失礼させていただきます」

「いや、うちらはかめへんけど、まだ焼うどんも残ってますし、食べていきはらんで大丈夫?」

「はい、ごちそうさまでした、とてもおいしかったです」― 楓はそう言いながらママとサっちゃんに軽く会釈をし、バッグから財布を出そうとした。と、すかさず柾樹が楓の手を制しながら、姉妹に「ごめんなバタバタして。今から楓を送って行くさかい、またな」と頭を下げ、さっと勘定を済ませた。

「そうしなはれ、淡見さん、京都駅まで送りがてら涙の訳をゆっくりと聞いたげはったらよろしやないの」

 柾樹は軽く頷きながら楓をエスコートして喫茶店を出ると、外はもうすっかり暗くなっていた。楓を京都駅行のバス停に連れていこうとする柾樹に、楓がそっと言った。

「先輩、このまま大阪に帰る前に一か所立ち寄っていきたいところがあるんですが、先輩もご一緒していただけませんでしょうか」

「まあ、それは構わんけど、ここからは近いんか」

「はい、目と鼻の先です」

「そんなに近いとこなんか」

「はい、この堀川通を渡ったところですから」

 不意に柾樹は、先ほどの楓への突然の電話といい、こんな時間に目の前の堀川通を渡ったところに急遽立ち寄りたいところがあるという話を持ち出してきたことといい、どこかいつもの楓とは別の人格が目の前にいるような気がして、なんとなく身の毛がよだつような感覚に襲われた。

 それはまさか、この可愛くて聡明で一緒にいるだけで気持ちが落ち着く楓が、実は、昔、強く惹かれていた萌と同様この世の者ではないという事実が露見する前触れなのではあるまいか。それが証拠に、楓が行きたいという堀川通を渡ったところにある建物とは、平素、和服のファッションモデルが繰り広げる着物ショーや織機を使った西陣織の実演などで観光客を楽しませている「西陣織会館」であって、つい今しがたあんなにさめざめと涙を流した後に、そんなところに立ち寄りたい、などという楓の神経の異常さは狐狸の類でなければあり得ない話だと柾樹は身震いした。

 そこで柾樹は語気を強めて「楓」ならぬ「楓もどき」に向かい次のように話しかけた。
「おい、楓、しっかりせえよ、ええか、さっきの携帯電話で流した涙と、通りの向こうに建ってる西陣織会館とはそもそもどんな関係があるというねん。まさか楓は僕の高校の後輩を騙って妖しの世界にこの僕を引きづりこもうとしている狐狸の類やないやろな。そういう世界は僕は好かんさかいに、もしほんまにそんなとこに僕を連れ込もうとしてるんやったら、ここで別れよやないか。君がほんまにこの世の者ではないんなら、今すぐ僕の前から姿を消してくれ。今までの二人の麗しき関係は夢のまた夢やったということで、僕はさっさと君と別れるさかい、間違うても僕に付きまとわんといてくれ。わかってるやろな、楓。いや、楓という名前さえ、僕を騙そうとした妖しの名かもしれんさかいにな!!」

 柾樹がやにわにそうまくしたてた理由の一つには、その種の世界への苦手意識が柾樹の根底にあったからでもあるが、同時にこの柾樹の挑発に乗って、目の前の楓こと狐狸の類がいきなりカンラカラカラと笑い始め、やがて眼をむき、口を耳元まで裂き、髪の毛を逆立て始めたら、間違いなく化け物が正体を現したことになる。その確証を得んがためでもあった。

 が、悲しいかな、怖がりの柾樹はもはや楓の表情の変化を正視する勇気もなく目を閉じてしまっている。全身を固くして楓の正体が現れる気配を感じ取ろうとしているのだが、一向にカンラカンラの高笑いは聞こえてこないし、眼をむいている気配も、口が裂けている様子もないようなので、柾樹はこわごわ目を開けた。

 と、目の前にいつもの優しく美しい楓が、半ば呆れたような表情でこの柾樹の怖がり独り相撲を見つめていて、やがて落ち着いた声で柾樹に語り掛けてきた。

「先輩、一体どうなさったんですか、急にお腹立ちになられて。楓は先ほどの電話で皆様にご心配をおかけしたので、その中身について先輩にきちんとお話しさせていただかないといけないと思ったから、一緒に某所に立ち寄っていただけますか、とお願いしたんですが、それがいけなかったんでしょうか。もしお気に召さなかったのであれば、楓は一人で堀川通を渡って目的の場所に参ります。確かに、お忙しい先輩にいきなり一緒に堀川通を渡って下さいとお願いをした楓の方が身勝手でした。そのために先輩を怒らせてしまったのですから、心からお詫びします。先輩、本当にごめんなさい」

 そんな楓の冷静な対応に、柾樹は楓を狐狸の類と決めつけて勝手に怒り出したわが身の未熟さを恥じ入ったが、それにしても、その行き先がなんで西陣織会館なのかの謎は依然として解けないままであったので、気分を落ち着かせて楓に再度問いかけてみた。

「いや、楓にそんな風に冷静に謝られると僕も恥ずかしいけど、それにしても、楓は、なんで今から西陣織会館などに行きたいと言い出したんや。それで僕はカチンと来たんやから」

「あのー、先輩は先ほどから西陣織会館のことばかりおっしゃっていますが、その西陣織会館というのはどこから出てきた話なんでしょうか」

「どこから出てきた話やて? 楓が今から行きたいので、一緒についてきてくれと言うたやないか」

「西陣織会館に一緒に行きたいなんて、楓は一言も言ってませんが・・・」

「何を言うんや。ここから堀川通を渡ったところにあるのは西陣織会館やないか。喫茶店であんだけ涙を流しといて、なんで急に西陣織会館に行きたいんや、それも僕と一緒に、とは訳が分からん話やないか」

 柾樹がそこまで言った時、楓はいきなり両手で顔を覆い隠して笑い始めた。柾樹は、
「ほら、ついに出たぞ、いよいよ狐狸の正体を現わす気だな」と身構えた。楓は体をゆするほどに笑いながら、やがて顔を覆った手の間から涙が零れ落ち、喫茶店で泣き出した時の楓に戻っていった。

「おい、楓。泣いてるんか、笑ろてるんか、どっちかにせいよ。そんなややこしい演技は僕には理解不能や」

「ごめんなさい、先輩。でも最初に楓が笑ってしまったのは、確かに堀川通を挟んで真向かいにあるのは西陣織会館ですから、楓が行きたいと思っている場所を先輩が誤解されたことに気が付いたからです。たしかにあの状況で楓が西陣織会館に行きたいと言ったとしたら、その常軌を逸した発想からも楓は狐狸の類だと思われても仕方なかったですものね」

「なんやて、楓が行きたいというてた場所は西陣織会館やなかったのか」

「そりゃそうですよ。いくら楓が世事に疎いとしても、あの状況でその発想はあり得ませんし、先輩にもそこはわかってほしかったです」と恨めしそうに柾樹を睨んでみせた。

「まあ、そういわれたらそうやけど、それにしても大笑いの後また涙を流し出したのはなんでやったんや」

「それはこれからお話ししなければならない厳しい現実を思い出したからです」

「その厳しい現実とこれから一緒に行きたいと思てる場所とは密接な関係があるんか」

「もちろんです。だからご一緒していただきいと申し上げたんです」

「なんや回りくどい話やなあ。ほんで、楓が堀川通を渡って行きたい場所と言うのは、一体全体どこやねん」

 そう促す柾樹に、ようやく涙が乾きだしていつもの表情に戻りだした楓が口にした場所の名称を聞いた柾樹は、再び腰を抜かさんばかりに驚いた。

( 次号に続く )