堀川今出川異聞(45)
いわき 雅哉
第5章 東国の系譜
◇逢瀬の深まり(1)
柾樹が発した「ちょっと話がしたいんだが、時間は大丈夫か」との問いかけに、楓は少し驚きながらも、嬉しそうに頷いた。
「いつもの喫茶店やとあの姉妹の邪魔が入り過ぎるから、どっか適当なところでコーヒーでも飲むか」
「それでもいいですが、楓はいつものお店でも一向に平気ですけど・・・」
「楓はそうでも、あの店では姉妹のチャチャが入り過ぎて話が前に進まへんから、どこぞこの辺の喫茶店にしようよ」
そう言いながらしばらく歩くと、大通りから露地風に細い道を入ったところに格好の小さな喫茶店があるのが目に入った。少し曲がりくねった感じの石畳とその両脇の植栽が何とも言えず粋でお洒落だ。
「楓、ここにしよう」と言うと、柾樹はその石畳を奥に向かって進んで行った。ドアを開けると、店内は落ち着いた静かな雰囲気で、幸い他にお客もいなかったので、一番奥のテーブルに陣取って、二人でコーヒーを注文した。
しばらくは珍しそうに店内を見渡していた楓が、不意に口火を切った。
「で、先輩、お話って何なのでしょうか」
「ん? いやな、ちょっと今日の楓は、いつもとは雰囲気が違っているように感じたさかいにどうも気になってな」
「いつもの私とは雰囲気が違ってたって、どんなところがですか」
「二つあった」
「二つも?」
「そうや。まず最初にそう感じたんは、あの首途八幡宮の境内から下の公園を見下ろしてた時に、突然後ろからドスのきいた声で『鍛心庵様でいらっしゃいますね』と声をかけられた時や。あの時の楓の毅然としたというか、あの平左と言う男に怖いくらいに凄んで、『そなた、何もの』とか何とか言うたよね。楓のあの迫力にはびっくりしたで。いつもニコニコと可愛い楓とは全く別人みたいやったさかい」
「ああ、あれですか」
「自分でも覚えてるか」
「勿論覚えています。あれは異界の妖しげな人物から先輩を守るためにやったことですから」
「僕を異界の妖しげな人物から守るために?」
「そうです。先輩が歴史上の偉大な先人たちに強い関心を持っておられるのは素晴らしいことですが、そうした人々は現世の人々ではなく全てこの世ならざる異界に身を移してしまった人たちです。それだけに、そういう偉大な人達にまぎれ込んで、良からぬ企みをする人達がいないとも限りません。あの声の主がそういう輩かもしれなかったので、この楓がビシっと一発かましてやったんです」
「この楓が、かましたんか」
「はい、この楓が、かましたんです」
「それはやっぱり、かまさんとあかんのか」
「そりゃそうですよ、先輩。妙なモノノケにでもとりつかれようものなら大変なことになるんで、ああいう時はかますんですよ」
「そうやったんか。道理でえらい迫力やった。あんな怖い楓は見たことなかったさかいに僕はほんまビビッたわ」
「先輩、この機会にはっきりと申し上げておきますけど、先輩は心根が優しいし人も好いので、ついつい相手に気を許してしまうことが多いように思えますが、異界との接触に当たっては、常に己をしっかりと持って、彼らにつけ入る隙を与えないよう振る舞うことがとても大切なことなんです」
「そうか、そうでないとつけ込まれておかしゅうなるわけか」
「そのとおりです。特に先輩の場合、相手がちょっと綺麗な女性の方だと、もうそれだけでだらしなくなってしまうんですから」
「こら、楓、そんな人聞きの悪いことを言うもんやない。せやけど楓はなんでそんなことにやたら詳しいんや。まさか楓自身が異界の人やないやろな」
「先輩、楓が異界の者でしたら、どうなさるおつもりなんですか」
「いや、楓が異界の人やったら萌さんの時のようにまた別れてしまうことにもなりかねんさかいにな」
「やっぱり先輩は、萌さんのことが忘れられないんですね」
「そらまあ、あれだけの人やさかいにな」
「はいはい、分かりました。で、もう一つのいつもと違う楓の様子とはどんなことだったんですか」楓は少し苛ついているようだった。
「そうそう、正にその萌さんにそっくりの女性がお抹茶を持って部屋に入ってきた時の楓の表情がいつもと違うて、えらいツンツンしてたやろ。それはなんでやったんや」
「ああ、あれですか。あれは、萌さんでもない女性に『萌や、萌やないか』と躍起になってた先輩の呆けた顔がばかばかしくてアホらしゅうて、それでツンとしてたんですよ」
いつもは穏やかで気配りが感じられる楓の言い方が、今日はやたらと当りがきつい。
「そやかて萌にそっくりに見えたやろ、そやから思わず・・・」
「先輩。先輩は本当に女性の気持ちが分からない人ですね。この期に及んでまだ萌さんのことが忘れられないんですか。そんなに萌さんがお気に入りなら、また萌さんに異界から現れてきてもらってお付き合いされたらいいじゃないですか。楓がわざわざ大阪からノコノコと出かけてくる必要なんて一体どこに・・・・」そこまで言うと楓はぐっと言葉を詰まらせた。
「か、楓。お前、妬いてるんか」
「もう知りません、先輩のことなんか。楓は大阪に帰ります」そう言うと楓は伝票をひっつかんで席を立とうとした。
「待て、楓、僕が悪かった。それに、さっき確認しかけてまだきちんと回答してもろてへんことが残ってるさかいそれだけは教えてくれ。要するに楓は、萌みたいに異界の人やないんやな、僕と同じ現世の人やと思うてええんやな」
「異界であろうが、現世であろうが、楓は楓です。そんなことを聞いて楓への想いやお付き合いの形を考えようとされる先輩なんか、大っ嫌いです」
楓は、厳しい表情で椅子から立ち上がり、テーブルから離れようとした。
「ま、待て、楓」― そう言うや、柾樹は、出口に向かおうとする楓の前に立ちはだかり、両腕で楓をひしと抱きとめた。楓は、一瞬その柾樹の手を振り払おうとしたが、柾樹は構わず力いっぱい両腕で楓を抱き締め、その動きを封じた。柾樹と楓の顔はくっつきそうになるくらい近接する中で、柾樹は楓の耳元で声を偲ばせて言った。
「僕は楓が一番好きや。誰が何というたかて絶対に楓が一番好きや。前々から言おう、言おうと思てながら、いつも言えんかった」そこまで言うと、柾樹は楓をより強く抱きしめてから、やおらその手を緩め、楓の手から伝票を取り上げて、ヘナヘナと椅子に腰をおろした。
楓もそっと目頭をぬぐいながら椅子に座りなおし、うつむいたままそっと言った。
「私も、です」
柾樹は思わず楓の目を見た。大粒の涙がその美しい瞳からポロリとこぼれ落ち、慌ててハンカチで目頭を押さえながら、楓は静かに言った。
「考えてみれば、初めてお目にかかった時から自分勝手に先輩に好意を抱き、その気持ちに応えて下さらない先輩に自分勝手に物足りなさを感じていた私の方が間違っていました。先輩、ごめんなさい」
「そ、そんな、楓、僕の方かて、同じ高校の後輩と言うことだけでどこか気やすさが感じられて好き放題に連れ回したりして、ほんま、悪かった。せやかて僕にとって楓は可愛いいて可愛いいて、ほんまにどうしようもないくらいに好きになる一方やった。そやのに萌さんに似た人が目の前に出てくるとそっちに夢中になってしまう。僕は悪い先輩や。堪忍して」
「先輩。昔、私はある人から言われたことがあります。男の人というのは、好きな女性を同時に何人も愛することができるんですってね。その方がおっしゃるには、男の人は女性と違って恋の『重ね着』ができるのよ、っておっしゃってました。だから先輩が萌さんも今なお愛しておられるのは当たり前のことなのに、楓はそれが許せなくって、こんなにはしたないところをお見せしてしまいました。恥ずかしいです・・・」
「楓。これからは楓100%でいくさかい、勘忍してな」
「先輩、そんなことを言っておいて、今、目の前にほんとの萌さんが出て来られたらどうなさるおつもりですか」
「いやいや絶対に楓だけや」
「それが先輩の調子よすぎるところなんですから。でも、まあ、いいです。そう言って下さるだけで楓は嬉しい」
柾樹は、そんな楓を心から愛しいと思い、じっと楓の顔をみる。本当に神々しいほどに美しく愛らしくて、あやうく「ほんまに現世の人やろな」とまた念を押したくなる。と、楓が真顔になって話しだした。
「先輩、よもやお忘れではないと思いますが、私は、優れた先人によって営々と築かれてきたこの国の歴史や文化、思想や習慣といった無形の価値が意味するものを、後世の人々に正しく伝えることを通して、この国の成り立ちがいかに多くのすぐれた人々の汗と涙の結晶として今に至っているかを正しく理解してもらうために、萌さんの後任としてその役割を引継ぐよう命じられ、大阪からここ京都にやって参りました。
である以上、まずは、今日、先輩が吉次さんから聞きだしたいと思いながらも果たせなかった数々の謎を、二人で一つずつ真剣に解明して行かなければなりません。楓は、どんな難儀が待ち受けていようと必死で先輩を支えるべく頑張りますので、どうか宜しくお願い致します」
柾樹は、その楓の言葉を聞きながら、楓がそんな使命を一体誰から命じられて大阪からやってきたのか、を質したい気持ちで一杯になったが、これ以上、楓との間で無粋ないざこざを起こしたくない、むしろ楓と一緒に逢瀬を重ねては色々なところを巡り歩くことができるのであれば、それで十分じゃないか、と思いなおし、楓に向かって威勢よく言い切った。
「よしきた、楓。我々二人が逢瀬を重ねるたんびに、先人の思いがどんどんと鮮やかに浮かび上がってくるっちゅう算段や。楓、離れんとこの俺についてこい!」
楓も心得たもので、即座に笑顔でこう応えた。「合点、柾樹兄やん!!」
( 次号に続く )