第40回 酉年を考える

 

歳神様をお迎えする玄関飾りが新春の朝日に輝く元旦の厳かさ 撮影 三和正明

 皆様、新年明けましておめでとうございます。本年もポジティブジャパンのメールマガジンご愛読の程よろしくお願い申し上げます。

 さて、冒頭から私事に及んで恐縮ですが、今日、私は年男として6回目の元旦を迎えました。そのせいか、いつものお正月以上に今年の干支である「酉」が示唆しようとしているものとは一体何であるのか、についてあれこれと思いを巡らせました。

 干支といえば、毎年その干支生まれの人々の性格や運勢を記述した暦がこの時期には人気を博しますが、どうも「酉」年生まれの人間にとっては昔から暦の中身はあまり有難くない内容だったようです。

 因みに高幡不動尊から毎年発行されている「御家寶暦」の平成29年版によれば、酉年生まれの人の「長所」は、「勤勉家であれもこれもと忙しく動き世を送る。常に貯金をし、万一の用意を怠らぬため成功し相当の富を造る。その上自立心が旺盛なので早くから独立して行く人が多い。」とありますが、勤勉でせっせと貯蓄に励んでそこそこのおカネは貯めるものの、恵まれた運気によって人生の成功街道を切り拓き、社会に大きく貢献するような大人物のイメージからは程遠く、いかにも現実主義的なプチブルジョアタイプ像が想定されているようです。

 一方、酉年生まれの人間の「短所」を同じ「御家寶暦」から引用すると、「極端な才気溢れ至って非常な短気と偏屈家で常に人と和さない。自我心強く利己主義で男女共一般に変わり者の称あり。また口の災いがあり。特に女は無節操で色情を慎むべし」とあり、コツコツ・せっせとお金をためる真面目さとは裏腹に、あまりお付き合いしたくないキャラクター満載の人間像がそこには描かれています。

 で、結果としての「一代の運勢」に至っては、「初年は男女共早く両親を失うか、故郷を離れ海外万里を駆け廻り、大望貪欲を抱いてそれが実現できないので悩み苦労する。三十歳前後に一時成功し、相当の富を造るが忽ち亡びる。滅びては栄え、栄えては亡びるという起伏の多い運命である。四十歳以後は精神的に不安定になり易く注意が必要である。」と全く悪いことだらけで、これでは酉年生まれの人々は救いようがないということになってしまいます。

 が、果たして本当にそうでしょうか。もともと古代中国で考え出された天体の十二宮の一つ一つに獣をあてがい「酉」には「鶏」をあてがったことから、やがて酉年生まれの人の性格を表すのに「鶏」特有の落ち着きのない動作癖が引用されるようになり、そのエキスが酉年生まれの人の運勢の見立てとして定着するに至ったと考えるのが妥当なような気がいたします。

 それだけに、そもそも鳥類を代表して干支の地位を確保するに至った「鶏」としても、また、その「酉年」に生まれた者としても、上述のような酉年生まれの性格・運勢評価に「ああそうですか」と言って引き下がるわけにはまいりますまい。

 そのための反論の先鋒として頭に閃いたのが、昨年5月に私が実際に味わった衝撃的な体験談でした。その劇的な体験を通じて、多くの人々が酉すなわち鶏に対してずっと抱いてきた落ち着きのない挙措動作や、風見鶏といった表現で揶揄される無定見で大勢の動向にすぐ順応する鶏の負のイメージから、私は劇的に解放されたのです。

 それは昨年の5月12日のこと、真夏を思わせる強烈な炎天下で実に3時間もの行列に耐えてようやく入場することができた上野の東京都美術館の「若冲展」での出来事でした。数多くの展示作品の中でも圧巻と思われた「動植綵絵」の中の「群鶏図」を見た瞬間、私が長年抱き続けてきた鶏の落ち着きのない負のイメージが音を立てて崩れ去ったのです。目の前の画面一杯に描かれた13羽もの色鮮やかな鶏は、そのいずれもが実に雄々しく個性的で誇りに満ち溢れ、これから生じてくるであろういかなる艱難辛苦にも敢然として立ち向かっていこうとする鶏の勇気の波動までが、その絵の前に立っている私の全身にビンビンと伝わってきたのです。

 それは鶏の中に内在していた野生の輝きであり、鳥類代表として酉年の顔に選ばれた自負のほとばしりでした。可愛いヒヨコとして生まれたものの、長ずるに従って激しく周囲への目配りを行うようになることで落ち着きのない動きが強調されるようになってきた結果、気ぜわしい性格の持ち主として認識されるようになった鶏。その数多い鶏の中から「牛後」となる生き方を拒否し「鶏頭」としての誇らしい生き方を貫いてきた鶏のみに神が与えたもうた種の完成形としての鶏の存在感。若冲は、種の完成形としていま目の前に実在する「神鶏」と呼ぶにふさわしい鶏の真骨頂をこの絵の中に描き切ったのです。そして、この進化の頂点をこそ運勢学は酉年のモデルとして取り上げねばならなかったのです。

 ちょっと話が大袈裟になってきましたので、もう少し気楽に鶏の優れた資質にスポットを当てましょう。何より鶏は朝一番に大きな美しい声で時を告げます。勤勉の象徴でもあるこの朝一番の鳴き声こそが、周囲に一日の始まりを告げ、今日も与えられた命を最大限に生かすことで世のため人のために頑張ろうとのメッセージとなるのです。

 ひょっとしたらこの朝一番の発声役も、鶏が他のすべての生き物の代表として神様から付託された尊い役割なのかもしれません。鶏は神様との約束は絶対に守る、鶏は決して手を抜かない、そんな誠実さが神様のお眼鏡にかなったのだとすれば、これも運勢学上はきちんと見直さなければいけない資質になりますね。

 もうひとつ。鶏の頭にはトサカ(鶏冠)というものがついています。特に雄鶏のトサカはよく発達していて顔の表情にも影響を与えるほどに立派な形をしています。ひょっとしてこれは、神様が勤勉で手を抜かない鶏へのご褒美として鶏に与えられた一種のアンテナ装置かもしれません。若冲は神様と鶏との黙契を見抜いていたからこそ、その色鮮やかで肉厚のアンテナ装置に強い思いを籠めて群鶏図を描き切ったのではないか、と想像するのですが、いかがでしょうか。

 こうして俯瞰してみると酉年が示唆している意味が見えてきたように思われます。群鶏図に象徴されるように、命を授けられた者は全て「その種の極限の進化」に向けて不断の努力を重ね、いかなる艱難辛苦をも乗り越えていくことを厭わず自己練磨するように、という御託宣こそが酉年の示唆するところなのではないでしょうか。

 すべてが経済的価値の追求にのみ収斂され、それ以上に深くて高邁な価値の存在には興味も関心も示さなくなったグローバル化社会。今、私たちが真剣に向き合わねばならない人間としての真の価値とは何かを考えるにふさわしいタイミングこそが、今日元旦を迎えた酉年の立ち位置なのではないでしょうか。

( 平成29年1月1日 記 )